『キングダム』では毐国建国の際に登場した宦官、趙高。
史実を調べると、これがとんでもない極悪人。
さらに、現代でも使われている『馬鹿』という言葉の語源を作ったのがこの趙高なのです!
趙高の史実をお伝えします。
- 『キングダム』趙高史実/そもそも宦官でないかも
- 『キングダム』趙高史実/始皇帝の末子胡亥(こがい)のお守り役だった
- 『キングダム』趙高史実/紀元前210年/始皇帝の死と趙高の謀略の始まり
- 『キングダム』趙高史実/紀元前210年/胡亥を『断じて行えば鬼神も之を避く』と説得
- 『キングダム』趙高史実/李斯をも丸め込む
- 『キングダム』趙高史実/紀元前210年/始皇帝の長男・扶蘇を自決させる
- 『キングダム』趙高史実/紀元前210年/蒙恬も自決させ、蒙毅も●害する!
- 『キングダム』趙高史実/紀元前208年/李斯をも処刑する
- 『キングダム』趙高史実/紀元前207年/秦帝国の崩壊・『馬と鹿』
- 『キングダム』趙高史実/紀元前207年/趙高、王になろうとする
- 『キングダム』趙高史実/紀元前207年/秦の滅亡
- 『キングダム』趙高(ちょうこう)史実から『馬鹿』の語源が!まとめ
『キングダム』趙高史実/そもそも宦官でないかも
趙高は『趙』の名を持つことから、趙の出身と考えられているようです。
早くから太后の側に仕えていたことも描かれています。
また、宦官として『キングダム』にも登場しますが、趙高が宦官であるということについては以下の3つの異論があります。
①母親が罪を犯したため、幼いときに弟たちもみな宦官にされた。
②趙高には閻楽という女婿(むすめむこ)がいるため、少なくとも幼い時から宦官だったわけではない。
③趙高は「隠宮」であるという記録から宦官と解釈されてきたが、別の記録で「隠官」の可能性が出て来た。隠官とは刑期を満了した人が働く場所や身分を指す言葉で、趙高は宦官でなかった。
『キングダム』では嫪毐(ろうあい)もニセ宦官だったし、そういうこともあったかもね~って感じだね。
浅田次郎さんの小説『蒼穹の昴』を読んで、宦官道ってキビしいのかと思い込んでたよ…まあ紀元前の話だからね!記録も少ないし、何でもありだね!
『キングダム』趙高史実/始皇帝の末子胡亥(こがい)のお守り役だった
趙高の生年は不明、いつから始皇帝・嬴政(えいせい)に仕えていたかもわかりませんが、始皇帝の末っ子・胡亥(こがい)の教育係でありました。
この胡亥(こがい)の生まれ年も2通りの記述があるようです。
①『史記』始皇本紀では紀元前230年生まれ、21歳で即位
②『史記』始皇本紀に附された『秦記』紀元前221年生まれ、12歳で即位
②の説が有力ですので、趙高は、政が中華統一を果たした年に生まれた子どものお世話をしていたことになります。
その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛され、始皇帝の身辺の雑務を全てこなしました。
『キングダム』趙高史実/紀元前210年/始皇帝の死と趙高の謀略の始まり
紀元前221年に中華統一を果たした始皇帝・政は、総計12,000kmにも及ぶ馳道(現代の高速道路)を作らせました。
紀元前220年、始皇帝はこの道を利用して、新しい領土を見に行くため第一回目の行幸に出かけます。
紀元前219年、王の即位を天地に知らしめるために二回目の行幸を行います。
三回目の行幸は紀元前218年。この時は暗殺未遂事件が起こります。
そんな事があっても紀元前215年には四回目の行幸を。
紀元前210年、大規模な『焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)』を行った年、五度目の行幸を行います。
同行していたのが末子の胡亥、それに李斯と趙高でした。
巡幸中に平原津のあたりで始皇帝は発病し、ますます病は重くなっていったため、長男・扶蘇に対して『葬儀を取り仕切るように』と書いた皇帝の印を捺した文書を作成しました。
すなわち扶蘇に対する後継指名です。
しかしこの文書は趙高にとどめられ、扶蘇のもとへは届きませんでした。
始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御しました。
伝説によると、『不死』の効果を信じられていた水銀を薬として与えられていたとも言われているよ
李斯は、世間に及ぼす影響を恐れて、始皇帝の死を秘密にし、喪を発表しませんでした。
始皇帝の死は、李斯・胡亥と趙高、信任されていた宦者5・6人が知るのみだったのです。
『キングダム』趙高史実/紀元前210年/胡亥を『断じて行えば鬼神も之を避く』と説得
趙高は始皇帝の詔の内容を偽り、「扶蘇を廃して胡亥が太子として立つ」という謀略を企てます。
末子の胡亥はこれを知り、即位を躊躇います(当たり前!)。
その説得の際に趙高が放った台詞が「断じて行えば鬼神もこれを避く」なのです。
『断固として行えば、鬼でさえこれを避けようとする』という意味で、現代では良い意味で使われていますね。
『キングダム』趙高史実/李斯をも丸め込む
趙高は李斯に対して「剛毅で武勇すぐれ、人望があり、兵士たちを奮い立たせることができる扶蘇が即位すれば、扶蘇に親しい将軍の蒙恬が丞相となり、自分や自分の一族の立場も危うい」と吹き込み、この謀略に巻き込みます。
賢明な李斯がこんなところでつまづくなんて…
『キングダム』趙高史実/紀元前210年/始皇帝の長男・扶蘇を自決させる
三人は始皇帝の文書を偽造して、扶蘇と蒙恬のもとに使者を送って届けさせます。
「朕(始皇帝)が天下を巡行して、名山にいる諸々の神々を祀り、長寿を得ようとした。
扶蘇と蒙恬に数十万の軍を率いらせ、辺境に駐屯させること十数年経ったのに、前進することはできず、数多くの兵士を失った。
尺寸の土地を得る功績は無いにも関わらず、かえって、何度も上書して、私の行いを直言して誹謗した。
(扶蘇が北地における蒙恬の監督)を罷免されて咸陽に帰還しても太子になることができないゆえに、日夜、怨望しているからだ。
扶蘇は人の子として不孝である。剣を賜うゆえ、自決せよ!
将軍の蒙恬は、扶蘇とともに外地にありながら扶蘇の行いを矯正しなかったのは扶蘇の謀計を知っていたからである。
これは人臣として不忠である。
死を賜うゆえ、軍は裨将(副将)の王離の下に配属させるように」。
wikipediaより
蒙恬はすぐに自決しようつする扶蘇を制止して「どうして、これが偽りでないと言い切れるでしょうか?」と怪しみますが、使者は何度も扶蘇の自決を促し、扶蘇は「父が子に死を賜うのに、どうして再び詔を請おうか!」と自決してしまいました。
蒙恬は気づいてたのに~!扶蘇の決断が速すぎる!
『キングダム』趙高史実/紀元前210年/蒙恬も自決させ、蒙毅も●害する!
趙高は胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握っていきました。
蒙恬は陽周の監獄に繋がれ、趙高により蒙氏は日夜誹謗され、その罪過を挙げて弾劾されました。
王族である子嬰が胡亥を諫めたが、聞き入られることはありませんでした。
蒙恬はその後、胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、毒を飲んで自殺しました。[1蒙恬は自殺する際、「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である」と言って毒を仰って自殺しました。
蒙恬は誰よりも秦国のために尽くしてきたのに・・・
趙高ごときに操られた皇帝でも、命令は絶対だったんだろうか?
紀元前209年、蒙毅も趙高により言いがかりを付けられて殺害され、蒙氏一族は皆殺しにされてしまいました。
『キングダム』趙高史実/紀元前208年/李斯をも処刑する
趙高は阿房宮の大規模な増築を進めるなど、人民に過重な労役を課しました。
陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、一気に全土での反乱として人民の不満が現れてきます。
事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深めていきます。
紀元前208年、ついに李斯は捕らえられる。凄惨な拷問に耐えられず趙高が捏造した容疑(李斯の長男が生前楚軍と内通していたという罪)を認め、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に腰斬(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)に処され、生涯を終えました。
その時に李斯は並んで刑場に引っ立てられた次男の李執に対して「私は故郷の上蔡で、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩りに出かける夢は、もう適わないのだな」と無念そうに述べたといいます。
李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わりますが、一族は全て誅殺され、李斯一族は根絶やしとなりました。
李斯は仲間じゃなかったんかーい!
『キングダム』趙高史実/紀元前207年/秦帝国の崩壊・『馬と鹿』
秦国内の反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯が項羽率いる楚軍に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となりました。
その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。
『馬鹿』の起源はこんなに古い!
胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。
趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。
趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。
このエピソードが「馬鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす』である。
『キングダム』趙高史実/紀元前207年/趙高、王になろうとする
紀元前207年8月、趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した(望夷宮の変)。
趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたのですが、側近や百官は趙高に従いませんでした。
趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとしました。
趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解しました。
この時、劉邦軍と密かに内通を画策していましたが、劉邦からは全く相手にされていませんでした。
同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰 に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとしますが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされました。
『キングダム』趙高史実/紀元前207年/秦の滅亡
趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まりましたが、時既に遅く、既に劉邦軍が咸陽の目前に迫っていました。
子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡しました。
『キングダム』趙高(ちょうこう)史実から『馬鹿』の語源が!まとめ
趙高が『毐国』の乱のときに太后に仕えたという記録はありません。
しかし、『キングダム』のおかげで顔のイメージができるので(実物とは違うでしょうが)、趙高の大暴れを興味をもって調べることができました。
あの時チラリと顔を見せた趙高が、秦国を滅ぼすほどの悪行を重ねるとは想像できませんでしたね!
『キングダム』の続きが楽しみです。
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