古代中国の乱世の悲劇を終わらせ、次代の光を求めて駆け抜ける英雄たちの物語『キングダム』。
この記事では、『キングダム』蒙恬(もうてん)の史実での活躍とその最期をご紹介します。
『キングダム』蒙恬(もうてん)史実に残る活躍
蒙氏は、蒙恬の祖父・蒙驁の代に斉から秦へ移ってきました。
蒙恬は当初は文官として宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていたのです。
紀元前225年 | 李信の副将として楚に出兵。一度は勝ちを納めたものの、楚の項燕(項羽の祖父)に大敗した(城父の戦い)。 |
紀元前221年 | 家柄によって将軍となった。 李信・王賁とともに斉を滅ぼした。中華の統一。 その功績により、内史とされた。 |
紀元前215年 | 30万の軍を率いて匈奴征伐。 始皇帝に弟の蒙毅も取り立てられ、両者とも忠誠と功績を認められた。 この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた長男の扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった。 扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる。 |
中華統一に貢献したんだね!
しかも李信や王賁たちの名前が出て来なくなっても活躍しているのかー
『キングダム』でも戦略に長けた知将ぶりを見せていますが、有能な武将であると同時に、『30万の軍を率いての匈奴征伐では、オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当した』という記録があるので、官僚としても高い能力を持っていたようです。
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『キングダム』蒙恬(もうてん)の死亡はいつ?
ところが…紀元前210年、始皇帝の死後、趙高・李斯が共謀。
始皇帝の末子の胡亥を皇帝に立てて、李斯を丞相にして、権力を護ろうと画策したのです。
えっ!これって毐国(あいこく)の乱の時の宦官じゃん!
史実では、毐国の乱に趙高の名前は出てこないんだ。
趙高たちは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇(政の長男!)と蒙恬に対して自殺を命じました。
ええっ何それ!
蒙恬は「怪しい!」って言ったんだけど、
なんと政の長男の扶蘇は抵抗せずに自殺しちゃったんだ!
紀元前210年。
その後蒙恬は、胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、毒を飲んで自殺しました。
蒙恬は「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である」と言って毒を仰って自殺したそうです。
これに対して、司馬遷の評は「私は、蒙恬が秦のために築いた長城や要塞を見たが、山を崩し谷を埋めて道路を切り開いたこと、まことに民の労力を顧みないものである。天下が治まった当初、負傷者たちの傷はまだ癒えていなかった。蒙恬は(始皇帝に信頼された)名将であるのだから(始皇帝に諫言して)、この時こそ、人民の危機を救い、老人を養い孤児を憐み、民の融和を図るべきであった」と厳しく批判しています。
蒙恬の死後、紀元前209年蒙毅も趙高に言いがかりを付けられて殺害され、蒙氏一族は皆殺しにされました。
さらに紀元前208年丞相・李斯も『胴斬りの刑』で処刑、趙高自ら丞相になります。
紀元前207年、皇帝胡亥をも殺害、王になろうとしますが、さすがにムリ。擁立した子嬰によって●害されました。
趙高ヤバすぎる!
『キングダム』蒙恬(もうてん)史実での死亡理由に驚愕!大活躍してるのに…まとめ
蒙恬は史実でも秦の中華統一、その後の国の統治においても大きな役割を演じました。
しかし始皇帝・嬴政(えいせい)亡き後宦官ごときに自殺を強制されるとは、考えられない展開ですね!
『キングダム』でこの部分が描かれるのはいったい何年後でしょうか(笑)
原先生の描く蒙恬の最期を見てみたいですね!
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