映画『人間失格-太宰治と3人の女たち』の中に出てくる小説『斜陽』とはどんな内容なのでしょう?
映画をさらに楽しむために、あらすじを簡潔にまとめてみました。
太田静子が主人公で、母と小説家、弟が中心人物です。
主人公が小説家と恋に落ちるところ、不倫の子を宿すところなど、まさに事実の通りです。
興味を持たれたなら、太宰治の小説でじっくり楽しんでみてくださいね。
『斜陽』が書かれた時期
1947年(昭和22年)2月21日、太宰治は伊豆の別荘で静子の日記を借ります。
太宰は『斜陽』を「新潮」に連載、同年12月15日に単行本が出版され、大ヒットします。
しかし1947年3月27日、太宰治は山崎富栄と出会い、5月3日には「死ぬ気で恋愛してみないか」と告げていますので、富栄と付き合いながら『斜陽』を書いていたことになります。
『斜陽』あらすじ 伊豆の山荘での朝食
お母さまは、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。
『斜陽』より
主人公・かず子の母の食事の仕方にはほんものの優雅さがあります。
スープに限らずチキン、ハム・ソーセージ、おむすびなど、自由にふるまっても優美なのです。
おれたちの一族でも、本物の貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある
弟 直治(なおじ)『斜陽』より
これは弟の直治が以前言っていたことで、現在直治は戦地へ行ったきり行方不明です。
冒頭の食事シーンの四、五日前、かず子は庭で見つけた蛇の卵を焼きました。
蛇は、十年前かず子の父が亡くなるときに現れた不吉の象徴であり、母はそれ以来蛇には畏怖の情をもってしまったのです。
そしてこの日、またしても庭に蛇が現れます。
かず子と母は、焼いてしまった卵の母親、と思い当たり、それぞれ不吉な思いに苛まれるのでした。
『斜陽』あらすじ これまでの経緯
家族の末裔である一家は、かず子の父亡き後は経済力がなく、母方の叔父に頼って暮らしていました。
終戦になり、やむなく東京・西片町(東京都文京区)の屋敷を売り払い、伊豆にある貴族の別荘を買って引っ越してきたのです。
太田静子も、1943年(昭和18年)秋~1951年(昭和26年)母方の叔父の紹介で、伊豆の山荘「大雄山荘」に疎開しているのよね
「かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くけれども、そうでなければお父さまの亡くなったこの家で、お母さまも死んでしまいたいのよ」という母の言葉を聞いて、かず子の過去が回想されます。
かず子は結婚して、妊娠して実家に戻り、赤ちゃんは死産だったこと。
弟は文学にのめりこむ不良少年だったこと。
父が亡くなってから十年でお金を遣い果たしてしまったこと。
翌朝、叔父、母、かず子の3人で伊豆の山荘に向かいます。
空気が良く、景色が良い、環境に恵まれた家ですが、お母さまは着いたその夜に発熱してしまいます。
二日ほどして回復したお母さまは、伊豆に来るのがいやで病気になっていたと語りました。
神さまが私をいちどお殺しになって、それから昨日までの私と違う私にして、よみがえらせて下さったのだわ
『斜陽』より
12月に越してきてから二人は編み物、読書などをしながら静かに暮らしてきました。
『斜陽』あらすじ 火事を起こしかける
4月のこと、お風呂の薪の燃え残りの不始末から、薪の山に火が移ってしまいます。幸い建物や近所に損害はありませんでしたが、厳しい言葉を言う人もいました。
宮様だか何さまだか知らないけれども、私は前から、あんたたちのままごと遊びみたいな暮し方を、はらはらしながら見ていたんです。子供が二人で暮らしているみたいなんだから、今まで火事を起こさなかったのが不思議なくらいなものだ。
『斜陽』より
翌日から、かず子は畑仕事に精を出しますが、一方母はめっきり衰えていきます。
『斜陽』あらすじ 弟直治の消息
そんなある日、かず子は母から
・直治が南方で生きていること、しかしひどい阿片中毒であること
・かず子は嫁入り先を捜すか、宮家の家庭教師として奉公に出るように、と叔父が言っている
と聞かされます。
かず子は「私はお母さまのそばにいたかった。もう出ていく。私には行くところがある」と泣き叫びます。
夕方になりかず子のところにやってきた母は、こういいます。
かず子、着物を売りましょうよ。二人の着物をどんどん売って、思い切りむだ使いして、ぜいたくな暮らしをしましょうよ。私はもう、あなたに畑仕事などさせたくない。
『斜陽』より
そして「行くところがある、というのは、どこ?」と母に聞かれ、かず子は
他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。
『斜陽』より
と答えます。
『斜陽』あらすじ 直治の帰還
直治が戦争から帰ってきて、伊豆で一緒に住むことになりましたが、初日から宿屋に酒を飲みに出かけてしまいます。
そして翌日にはもう、東京の友だちや小説家の師匠に会う、と出て行ってしまいます。
かず子は片付け前の直治の荷物から、何気なくノートを取り出し、読んでしまいます。
学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。
「夕顔日誌」と題されたノートいっぱいの苦悩の羅列。
ママ!僕を叱ってください!弱虫!って
ママには無類の良さがある。ママを思うと、泣きたくなる。ママへおわびのためにも、死ぬんだ。
『斜陽』より
かず子が思い出すのは結婚していた時のこと。
弟が薬物中毒でお金をねだるため、腕輪や頸飾りやドレスを売ってお金に換えて渡していたのです。
お金を届けたのは小説家・上原の家でした。
上原に直治の姉だ、と名乗ると、上原は物も言わずにバアに連れて行き、「弟さんは薬より酒にしたほうがいい」などと言いました。
そして、店を出るとき突然キスをしたのです。
それは「ひめごと」のはじまりで、上原のことは好きでも嫌いでもなかったのに、結局結婚生活は破綻してしまいました。
弟の薬物中毒の多額の借金を知り、弟を酒の方向へ引き込むべく、いっしょに上原の噂をしたり、自分も上原の著作を読んだり。
あれからもう六年です。
不良でない人間があるだろうか。
私だって不良、叔父様も不良、お母さまだって、不良みたいに思われてくる。
不良とは、優しさのことではないかしら。『斜陽』より
『斜陽』あらすじ 3通の手紙
その夏、かず子は小説家・上原に3通の手紙を送ります。
上原の愛人になり、子どもを産みたい。逢いに来てください。という内容ですが、返事はありません。
そのうち母の病気が重くなり、ついに結核だということがわかります。
看病しながら読書する本がローザ・ルクセンブルグの「経済学入門」なのね!
革命をあこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え・・・
革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だからおとなのひとたちは意地悪く私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いない。
私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。
『斜陽』より
この夜、遅くまで読書にふけるかず子の様子を見に、お母さまが笑いながら顔を見せるのでした。
『斜陽』あらすじ 母の死
ある朝、かず子は母の手がむくんでいるのを見ます。
直治は叔父と相談するため東京へ。医者と看護婦を連れて帰ります。
母はかず子に「縁側に蛇がいる夢を見た」と言い、かず子は本当にそこに蛇がいるのを発見するのです。
悲しみの底を突き抜けたような気がするかず子は、
幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか
『斜陽』より
と考えるのでした。
そして日本で最後の貴婦人だった美しいお母さまが亡くなります。
『斜陽』あらすじ 『戦闘、開始』
葬式が終わった後のある日、直治が山荘に女性を連れて来たので、かず子は東京に出るチャンスを掴みます。
上原の自宅には妻がいて、行き先を教えてくれました。3軒回って、6年ぶりに上原に会うことができました。
酒場では酔客が騒がしい中、若い女性がいっしょにおうどんを食べようと誘ってくれます。
人はこの世に生まれてきた以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。
『斜陽』より
その夜、上原とようやく結ばれたかず子でしたが、弟の直治は自殺していました。
『斜陽』あらすじ 直治の遺書
人間は、みな、同じものだ。
これは、いったい、思想でしょうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います。
民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくように、いつのまにやら、誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。『斜陽』より
こんな言葉から始まる長い遺書は、思いもかけず、ある洋画家の妻に恋をしてしまったことの告白へと続きます。
さようなら。姉さん。僕は、貴族です。
『斜陽』より
『斜陽』あらすじ 最後の手紙
上原に懐妊を知らせるかず子の手紙は、
あなたが私をお忘れになっても、また、あなたが、お酒でいのちをお無くしになっても、私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行けそうです。
『斜陽』より
まとめ
太田静子の日記を見たがった太宰がそこに求めたものは何だったのでしょう。
それは太宰治自身の『斜陽』を書くための、素材ではないでしょうか。
太宰治の生家は青森でも有数の資産家でした。
終戦後の農地改革で打撃を受けた我が家の『斜陽』を描きたい。
失われていく貴族の最期の姿を書き留めたい。
作中では3つのパターンが描かれていきます。
生まれながらのほんものの貴族として死んでいく母親。
生きる場所を失って、貴族のままの死を選ぶ弟。
没落するだけでなく、革命を起こし、恋による新しい生き方を手に入れるかず子。
太田静子のその後は
1948年(昭和23年)、『斜陽日記』出版
1950年(昭和25年)、『あはれわが歌』をジープ社から刊行。
以後は炊事婦や寮母として生計を立て、静子の男兄弟らの支援・協力も得て娘・治子を育て上げました。
娘・太田治子は作家として活躍中。
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