映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじとクイーンをめぐる相関関係

映画

2018年、世界中にクイーン旋風を巻き起こした映画『ボヘミアン・ラプソディ』。
登場人物の相関関係に焦点を当てながら、あらすじをたどっていきます。

映画と実際の出来事とで異なるところは、事実をご紹介します。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ|フレディの生い立ち

1946年9月5日、ファルーク・バルサラ(後のフレディ・マーキュリー)はザンジバル(タンザニア)に生まれます

ボミ・バルサラ、母ジャー・バルサラはインド生まれ、ソロアスター教徒のパールシー(ペルシャ系)。

カシミラ・バルサラを含めた4人は、その後インドに移ります。

フレディは8歳でピアノを始め、12歳のときにはスクールバンドでピアノを弾いていました。
1963年、ザンジバルに戻りますが、1964年ザンジバル革命のためイギリスへ。
イギリスの学校では芸術とグラフィック・デザインを学び、後の衣装デザインで才能を発揮します。

イギリスの学校では、ファルークという名前はわかりづらいため、フレデリック、フレディと名乗るようになりました。

「善き思い、善き言葉、善き行いを心掛けろ」と説く父は厳格な性格でした。

空港でのアルバイトは、実際にフレディが行っていたことなのね!

映画ではラミ・マレックが入れ歯をつけて演じたという特徴のある前歯、ちょっとやりすぎでは?と思いませんでした??
フレディはたしかに大きな歯の持ち主でしたが、決して出っ歯ではありませんでした。フレディ・マーキュリーhttps://nosumi.exblog.jp/27445170/より転載
映画『ボヘミアン・ラプソディ』フレディとラミ・マレックの身長・体重比較!
映画『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレック。 体格が一回り華奢で、どことなく何かが違う印象でしたが、実際のところどうなのでしょう? フレディ・マーキュリーとラミ・マレック、2人の体格を比べてみま...
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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ|メアリー・オースティンとの出会い

1969年、ブティック「BIBA」の店員メアリー・オースティンと出会います。

映画ではスマイルのライブで出会ったことになっているけど、ブティックで出会ったという説が大半だね

先にメアリーをデートに誘ったのはブライアン・メイでしたが、その5か月後、フレディはメアリーをデートに誘い、さらに5か月後、一緒に暮らし始めます。

1973年、フレディはメアリーにプロポーズし、メアリーは承諾しましたが、フレディにはツアーの予定が続いたこと、自身のセクシュアリティを自覚すること等の理由か、結婚することはありませんでした。

プロポーズの時、メアリーに渡した大きな箱の中には箱、その中にはまた箱、と何重にも重なっていて、最後に翡翠の指輪が入っていた、というのが実話だそうです。
フレディのお茶目さが伝わって来るエピソードですね!

1976年にはメアリーはフレディがゲイであることを指摘し、婚約を解消しました。
その後相談役兼個人秘書として、そして生涯の友人として、フレディを支え続けました。

「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」(『オペラ座の夜』収録)はメアリーに捧げた曲と言われています。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ|クイーン結成

クイーンのメンバーはこの4人。

フレディ・マーキュリー:歌

ブライアン・メイ:ギター

ロジャー・テイラー:ドラム

ジョン・ディーコン:ベース

バンドのはじまりは1970年。ブライアン・メイとロジャー・テイラーらのバンド「スマイル」のボーカルが脱退することになり、ここにフレディが加入します。
フレディの発案で、バンド名を「クイーン」にします。

「間違いなく堂々としているし、響きもいい。
それに力強さもあって、どこでも通用するわかりやすいネーミングだ。
ゲイを思わせるような名前だとわかってはいたが、それはほんの一面にすぎなかった」

フレディ・マーキュリー (Wikipediaより)

ジョン・ディーコンは1971年に加入しますが、6人ものベーシストが入れ替わったのちの決定でした。

車を売ってレコーディング費用を作ったことも本当なのね!

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ|クイーン、レコード会社EMIと契約~リリースアルバム一覧

1973年3月、EMIのジョン・リードは彼らをスカウトし、マネージャーとなります。
そして、ポール・プレンターをクイーンの付き人に任命します。

映画では、フレディを好きになってしまったポール・プレンターがメアリーの電話を取り次がなかったり、ジョン・リードを裏切ったりするシーンがあったけど、実際クイーンのメンバーからは嫌われていたみたいね!!

ジョン・リードの後クイーンのマネージャーになったのがジョン・ビーチ、弁護士だった”マイアミ”なんだね

映画『ボヘミアン・ラプソディ』に登場するレイ・フォスターは架空の人物ですが、EMIのロイ・フェザーストーンがモデルのようです。

このころ、フレディは名字をマーキュリーに変えました。

1973年7月『戦慄の王女(原題:QUEEN)』を、
1974年春『クイーン II(原題:QUEEN II)』をリリースし、他バンドの前座ですが全米ツアーへ。ブライアン・メイの肝炎により中断、帰国。

1974年11月『シアー・ハート・アタック(原題:SHEER HEART ATTACK)』をリリース、先行シングル「キラー・クイーン」がヒット。
1975年の初来日公演では、成田空港に2,000人ものファンが殺到しました。

1975年11月『オペラ座の夜(原題:A NIGHT AT THE OPERA)』ここからの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒット、ついに全英1位に輝く。

1976年『華麗なるレース(原題:A DAY AT THE RACES)』全英1位、ワールドツアー大成功。

1977年『世界に捧ぐ(原題:NEWS OF THE WORLD)』「伝説のチャンピオン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「永遠の翼」など立て続けにヒットを飛ばす。

1978年『ジャズ(原題:JAZZ)』「ファット・ボトムド・ガールズ」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」

1980年『ザ・ゲーム(原題:THE GAME)』「愛という名の欲望」「セイヴ・ミー」「プレイ・ザ・ゲーム」「地獄へ道連れ」

1980年12月『フラッシュ・ゴードン(原題:FLASH GORDON)』

1982年5月『ホット・スペース(原題:HOT SPACE)』音楽の方向性の問題発覚、活動を一時休止

1984年3月『ザ・ワークス(原題:THE WORKS)』「RADIO GA GA」

1985年『カインド・オブ・マジック(原題:A KIND OF MAGIC)』バンドの中で対立が激化。

1985年7月『ライヴ・エイド』出演

1989年5月『ザ・ミラクル(原題:THE MIRACLE)』

1991年『イニュエンドゥ(原題:Innuendo)』

1991年11月24日 フレディ・マーキュリー逝去。享年45歳

1995年11月『メイド・イン・ヘヴン(原題:MADE IN HEAVEN)』

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ|フレディとジム・ハットンとの出会い

映画ではフレディの自宅パーティに仕事で来て、フレディが電話帳で探し当てる設定のジム・ハットンとの出会いは、事実と違うようだね

1984年、フレディはバー「ココバーナ」でジム・ハットンに声をかけますが、他の男性と一緒にいたジムにあっさりふられます。

ジム・ハットンは、1949年アイルランド生まれの美容師です。

ジム・ハットンが恋人と別れた後、「ヘブン」というバーでフレディと再会、つきあい始めます。

これは偶然ではなく、フレディはかつての恋人ジョー・ファネリに、ジムの行動を探らせていたのです!

「きみは僕と闘って、僕を勝ちとったんだよ!」

フレディ・マーキュリー(ジム・ハットン著『フレディ・マーキュリーと私』より

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1985年に発表した『アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』はジム・ハットンに捧げた歌と言われています。

同年発売したソロアルバム『Mr.バッド・ガイ』に収録されています。

ジム・ハットンはエイズに感染していましたが、フレディの死後、発症を防ぐ薬が開発されたためエイズによって命を落とすことはありませんでした。肺がんにより2010年1月1日に亡くなられました。60歳でした。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ|メアリー・オースティンとジム・ハットン

フレディは、メアリーとの婚約を解消した後、フレディ、メアリー、ジム・ハットンの3人で過ごすこともあり、多くの写真が残っています。

しかし、ジムは「メアリーは自分の事を良く思っていなかった」と著書の中に書いています。

お互いに、嫉妬の感情があったのかもしれませんね。

フレディは生前、一緒に暮らしていたジムに対して「この家に好きなだけいていい」と話していたそうですが、メアリーは「遺言書がない」という理由で、すぐに家から追い出してしまったそうです。

日本円で60億円を超えるフレディの遺産は、家族、恋人、ボディガードなどに配分されたそうですが、印税、自宅、遺産のほとんどはメアリーのものになったようです。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ|ライブエイド後のクイーン

1985年7月のライブエイド出演が『ボヘミアン・ラプソディ』のラストシーンです。

実際のステージにあまりにも忠実に再現されていることで話題になりました。

私も映画館から帰ってきてすぐにYouTubeで再確認しました!

ステージ衣装はブライアン・メイから本物を提供されていますし、キーボードの上のプラスチックカップまで寸分変わらぬ再現がされています。

実際にはフレディがエイズの宣告を受けたのは、ライブエイド後の1987年のことですが、フレディは病魔と闘いながらも2枚のアルバムを制作しています。

1991年のアルバム『イニュエンドゥ』収録の「ショー・マスト・ゴー・オン」を書いたブライアン・メイはフレディの体を気遣い、”高音が出るか?”と尋ねたそうです。

フレディは「なにがなんでもやってみせるさ」と答え、立っていることさえつらい体で、奇跡のような歌声を残しています。

ブライアン・メイとロジャー・テイラーは映画『ボヘミアン・ラプソディ』の制作に協力を惜しまず、ライブエイド後の続編も望んでいると語っています。

優しい人間性で知られるジョン・ディーコンは、「フレディ以外の人間の声でクイーンの曲を演奏したくない」とクイーンを脱退するだけでなく、音楽業界から去っていきました。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじとクイーンをめぐる相関関係・まとめ

映画『ボヘミアン・ラプソディ』のあらすじをたどりながら、クイーンをめぐる相関関係に焦点を当ててみました。

フレディ本人は語りたがらなかったイギリス以前の生活から、クイーンの結成、メアリー・オースティンとジム・ハットンとの関係等についてご紹介しました。

クイーンの精力的な活動も改めて驚きましたし、最後まで音楽を続けたことも含め、惜しい人を亡くしたとしか言いようがありません。

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