豪華客船タイタニック号の事故は、1912年4月14日、夜の11時40分のこと。
北大西洋での事故発生から2時間40分後の翌4月15日2時20分に沈没。
1,514人が亡くなり、710人が生還しました。
生存率は31.9%です。
この生存者にはどんな人がいたのでしょう?
chatGPTが選んだ8人をご紹介します。
- タイタニック号沈没事故の生存者・唯一の日本人:細野正文(ほその・まさぶみ)氏
- タイタニック号沈没事故の生存者:ドロシー・ギブソンさん(女優・歌手・モデル)
- タイタニック号沈没事故の生存者:ルーシー・ダフ=ゴードンさん(デザイナー)
- タイタニック号沈没事故の生存者:マデリン・アスターさん(大富豪の妻)
- タイタニック号沈没事故の生存者:マーガレット・ブラウンさん(不沈のモリー)
- タイタニック号沈没事故の生存者:チャールズ・ライトラー氏(二等航海士)
- タイタニック号沈没事故の生存者:チャールズ・ジョーキン氏(ウィスキーをがぶ飲みして助かったパン焼き職人)
- タイタニック号沈没事故の生存者:バイオレット・ジェソップさん(3度の沈没を生き延びた客室乗務員)
- まとめ
タイタニック号沈没事故の生存者・唯一の日本人:細野正文(ほその・まさぶみ)氏
氏名:細野正文
1870年11月8日~1939年3月14日
細野氏は事故当時41歳。
1910年に、鉄道院(現在のJR)の第1回海外留学生として、ロシア・ドイツ・フランスの鉄道事情を視察していました。
イギリスからアメリカ経由で帰国する予定で、当時話題だった新造船「タイタニック号」の1912年4月の初航海に乗り合わせていたのです。
鉄道院の高官だったんだね!
唯一の日本人生還者として有名になりましたが、のちにバッシングを浴びることになります。
細野氏はこの時の様子を手記に残しています。
ボートが順次に下りて最後のボートも乗せ終わりし即に下ること数尺、時に指揮員人数を数え今二人と叫ぶ其声と共に一男子飛び込む。
余は最早船と運命を共にするの外なく最愛の妻子を見ることも出来ざることも覚悟しつつ凄愴の思いに耽りしに今一人飛ぶのを見て責めて此の機にてもと短銃に打たるる覚悟にて数尺したなる船に飛び込む。
幸なる哉、指揮者他の事に取紛れ深く注意を払わず且暗き故男女の様子も分らざりしならんか、飛込むと共にボートはするすると下りて海に浮ぶ。
「タイタニック引上げ品展」のパンフレットより)
タイタニック号ではレディ・ファーストが徹底され、まず女性と子ども、次に一等船客の男性の順で救命ボートに乗ったため、細野氏と同じ二等船客の男性の生存率はわずか8%だったのです。
五千円札の肖像で有名な新渡戸稲造氏もまた、インタビューの際に批判的な言葉を残しています。
イヤ、当人は、何も悪い考でやった事ではなかろうが、丁度その時・・・・妻は夫の為めに、夫は妻の為めに、役員は職務の為めに、各其本分を守って死なば諸共と、悠容死を待って居た時今しも本船を離れんとする女のボートに向かってヒラリと飛び下りた男があるんだ。
巧く考えたので、ボートが離れるという瞬間に飛び込んだのだから、人人は止めることも出来ない。
ボートの方でも追い上るわけにもゆかず、其人はマンマと一命を全うしたのだが、此一人の男というのは、当時タイタニックに乗り込んで居た・・・・たった一人の日本人であったのでね、勿論、その人は鉄道院かの役人だから責任を重んじて助かったのだろうが、何でも、其人は帰って来てから休職になったようには聞いて居る・・・・
新渡戸稲造『義勇青年』1916年3月号
当時、船主のブルース・イズメイ氏をはじめ、生還した男性に対するバッシングは世界的なものだったようです。
細野正文さんの長男は細野日出児氏。次男は細野日出男氏。三男は細野日出光氏。四男は細野日出臣氏。細野日出臣氏の息子さんは世界的ミュージシャン・YMOの細野晴臣さんです。
タイタニック号沈没事故の生存者:ドロシー・ギブソンさん(女優・歌手・モデル)
氏名:Dorothy Gibson
1889年3月17日~1946年2月17日
歌手、モデルとして世に出て映画界へ入ったドロシーは、イーストマン・コダック社の大株主でユニバーサル・ピクチャーズの共同創立者でもある、映画界の大立者ジュール・ブリュラトゥールとの不倫関係に陥っていました。
セレブリティってわけね
当時22歳のドロシーは、母と6週間の休暇をイタリアで過ごし、ニューヨークでの撮影に臨むため、タイタニック号の一等船客となりました。
彼女は母親と一緒に救命ボートに乗り込み、生き残りました。
ドロシーは自ら脚本を執筆して、事故から1か月後に公開された映画『Saved from the Titanic』に主演しました!
タイタニック沈没を映像化した最初の作品で、アメリカ、イギリス、フランスで大成功を収めたんだって。
フィルムは残っていませんが、この時の衣装は実際にタイタニック号の事故で着ていたものだったそうです。
単にラッキーというより、たくましさを感じるね!
タイタニック号沈没事故の生存者:ルーシー・ダフ=ゴードンさん(デザイナー)
氏名:Lucy Christiana, Lady Duff-Gordon
1863年6月13日 – 1935年4月20日
イギリスのファッション・デザイナー。第5代準男爵サー・コズモ・ダフ=ゴードンの妻。
18歳で結婚、女児を出産後離婚したルーシーは、生活のため洋服づくりの事業を始めます。
30歳の時にロンドンで開いた上流階級向けファッションサロン『ルシール』が人気を博し、パリやニューヨークにも支店を出します。
1900年5月24日には、スコットランドの地主である第5代準男爵サー・コズモ・ダフ=ゴードンと再婚。
タイタニック号には夫妻は別々の一等船室に乗船していました。
事故が起こり、救命ボートに避難した時のこと。
一号ボートは定員40人だったのに、このボートにはダフ=ゴードン夫妻とその秘書を含めて5人の一等客と7人の船員しか乗っていませんでした。
そのうち火夫チャールズ・ヘンドリンだけが「ボートに余裕があるので海中に落ちた人々を助けに戻るべきだ」と主張しましたが、ルーシーを含めてその意見に賛同する者はなかったのです。
ルーシーはボートの中で船酔いして、一晩中吐いているだけだったようです。
また夫のサー・コズモはボートの船員たちに5ポンドずつ配ったのですが、このお金は後にボートを戻すなという買収であったかのように語られることになりました。
結局帰国後夫妻はバッシングにさらされます。
裁判では有罪になりませんでしたが、生涯にわたって批判され続けました。
自分さえよければ、という考えは許されないよね
タイタニック号沈没事故の生存者:マデリン・アスターさん(大富豪の妻)
氏名:マデリン・タルマージュ・フォース
1893年6月19日-1940年3月27日
ハイ・ソサエティで育った彼女は、1911年9月9日、アメリカの財閥・社交界の名士ジョン・ジェイコブ・アスター4世と結婚しました。
マデリンは18歳、ジョンは47歳という年の差があったのと、ジョンの前妻との離婚直後であったため、周囲からはかなりの反対がありました。
氏名:ジョン・ジェイコブ・アスター4世
1864年7月13日 – 1912年4月15日
ジョン・ジェイコブ・アスター4世は、アスター家の莫大な所有地を管理し、いくつもの銀行の頭取を務めました。1897年にニューヨークにウォルドルフ=アストリア・ホテルを建てたのもこの人です。
妻と離婚し愛人と再婚するということは、当時の社交界では大変なスキャンダルでした。
二人は世間の非難から逃れるため、1912年1月24日ホワイト・スター・ラインの豪華客船オリンピック号に乗船しエジプト、パリで4か月を過ごしました。
妊娠3か月の妻のための看護婦、執事、メイド、愛犬をも伴った彼らは、この旅でマーガレット・ブラウン(不沈のモリー)と出会います。
モリーが孫の病気のためアメリカに帰ると聞き、マデリンが「私たちも帰らない?赤ちゃんが船で生まれたら大変だし」と言い出したため、一行はタイタニック号に乗船することにしました。
1912年4月14日。
タイタニック号は氷山に衝突しますが、ジョン・ジェイコブ・アスター4世は慌てる様子も見せず、のんびり構えていたようです。
避難が始まるとまず妻、メイドと看護婦がボートに乗るのに手を貸し、「妻が身重なので私もボートに乗って良いか」と聞きますが、二等航海士チャールズ・ライトラーに「ご婦人が済むまで男性は乗れない」と断られています。
ジョンの遺体は事故後に回収されています。
さてジョン・ジェイコブ・アスター4世は、遺言で妻に10万ドルの全額、500万ドルの信託基金からの収入、5番街の家の使用を残しました。
300万ドルの資金は、彼の胎児のジョン・ジェイコブ「ジェイキー」アスター6世のために確保されました。
ジョンの死から4年後、マデリン・アスターは、1916年6月22日、メイン州バーハーバーで幼なじみの銀行家ウィリアム・カール・ディックと再婚し、信託基金からの給付金を失いました。
18歳で大富豪と結婚して、たった1年でタイタニックなんて…
23歳で再婚、わかるなー
しかし1933年には銀行家とも離婚してイタリア人のボクサーと再再婚、
1938年には離婚と。数奇な運命をたどったね…
タイタニック号沈没事故の生存者:マーガレット・ブラウンさん(不沈のモリー)
氏名:Margaret Tobin(旧姓)
1867年7月18日 – 1932年10月26日
オリンピック号での旅行中、孫が病気という知らせを聞いて、アメリカに帰国を決意。
ジョン・ジェイコブ・アスター4世夫妻一行とタイタニック号に乗ります。
事故が起こったとき、マーガレットは他の乗客が救命艇に乗るのを助けていました。
最終的に救命ボート6号に乗りましたが、ボートの操舵員ロバート・ヒッチェンスに生存者を救助するため現場に戻るよう説得しました。
カルパチア号に収容後も、女性乗客の中でリーダーシップを発揮し、ヒロインとみなされるようになって行きます。
映画『タイタニック』でも印象的だったね!
後にマーガレットは労働者と女性の権利、子どもの教育、歴史の保尊といった社会問題に取り組み名声を得ました。
『不沈のモリー(Unsinkable Molly Brown)』という通称で呼ばれるようになったのは死後のことで、生前はモリーと呼ばれたことはありませんでした。
タイタニック号沈没事故の生存者:チャールズ・ライトラー氏(二等航海士)
氏名:Charles Herbert Lightoller
1874年3月30日 – 1952年12月8日
あれ?この人ジョン・ジェイコブ・アスター4世をボートに載せてあげなかった人ですよね?
チャールズ・ライトラーはタイタニック号の二等航海士で、衝突時には船橋にいました。
彼は救命ボートの運用を指揮し、自らは一度海中に落ちたのです。
その後、ひっくり返って上下さかさまになっている折りたたみボートBにしがみつくことに成功しました。
このボートBには20~30人がしがみついていました。
ボートのバランスが崩れないよう、チャールズ・ライトラーはまとめ役になり「右へ寄れ」「左に寄れ」と指示を出しました。
低体温で沈んでいく人たちもいる中、明るくなると笛を吹いて他のボートに救援を求めたのもチャールズです。
大活躍だね!生き残れて良かったよ…
タイタニック号沈没事故の生存者:チャールズ・ジョーキン氏(ウィスキーをがぶ飲みして助かったパン焼き職人)
氏名: Charles John Joughin
1878年8月3日 – 1956年12月9日
この人が有名なのは『ウィスキーを大量に飲んでいたおかげで生き残った』と言われているから!
チャールズ・ジョーキン氏の父親は軍へ食糧を供給する業者でした。
チャールズも11歳の時には海で働くようになり、のちにホワイト・スター・ライン社に入社しています。
タイタニック号の処女航海ではパン焼き主任として乗船しています。
船が氷山と衝突した後は、三等船室と救命ボートデッキを何度も往復して女性や子どもをボートに乗せました。
ジョーキンは操船ができたため、10号ボートの指揮を割り当てられましたが、これを辞退して死を覚悟しました。
4月15日午前1時20分、苦痛を和らげ恐怖を忘れるために、カフェ・パリジャンの食品庫でウィスキーを飲み始めます。
これが吉と出るんだから、わからないもんだよなー
午前2時15分、最後の酒を「乾杯!」と言いながら飲み干しているときに船体が2つに折れてしまいます!
傾く甲板から人々が海に滑り落ちていく中、へべれけのジョーキンは最後の瞬間まで船上に残りました。
午前2時20分、ついに海に飛び込みますが、ジョーキンは大量のアルコールのおかげで『体中を針で刺されるような苦痛』を感じなくて済んだのです!
多くの人が低体温症で意識を失って行きましたが、ジョーキンは明け方まで泳ぎ続け(前述の)ライトラーのボートBにたどり着き、救助されました!!
余談なんだけど、チャールズ・ジョーキンは1916年にもパン焼きのために乗船した『蒸気船コングレス』の沈没に乗り合わせているんだ!
これは船内の火災が原因で、救命ボートで助かったらしいけど、ほんとに強運の持ち主だね!
タイタニック号沈没事故の生存者:バイオレット・ジェソップさん(3度の沈没を生き延びた客室乗務員)
氏名:Violet Constance Jessop
1887年10月2日 – 1971年5月5日
アルゼンチン出身のヴァイオレットは9人兄弟の一番上。
いつも幼い兄弟の世話に追われていたヴァイオレットは、父の死をきっかけに家族でイギリスに移住することになります。
母の仕事は客船の客室乗務員。
ヴァイオレットも21歳で客室乗務員になります。
最初の事故は1911年9月20日。
ヴァイオレットの乗ったオリンピック号は、イギリスの軍艦ホークと衝突します。
この事故での死者はなく、船はサウサンプトンに無事帰港できました。
1912年4月14日に、タイタニック号の沈没事故に遭います。
ヴァイオレットは映画『タイタニック』で描かれたように、英語の通じない人たちにわかるよう、彼らの前で救命胴衣を着用して見せました。
その後士官から救命ボートに乗るよう指示され、また、赤ん坊を世話するよう手渡されました。
ヴァイオレットと赤ん坊はカルパチア号に救助され、赤ん坊はカルパチア号で母親の元に戻ることができました。
1916年11月21日。
第一次世界大戦中、ヴァイオレットは病院船に改造されたブリタニック号に乗っていました。
船は機雷に触れて爆発、沈没しました。
1066人の乗員のうち30人が死亡したこの事故では、救命ボートに避難した人々が船尾のスクリューに巻き込まれ亡くなったのです。
ヴァイオレットは海に飛び込み、負傷しましたが生還することができたのです
1920年にはまたホワイト・スター・ラインに復職したんだって。
メンタル強いな!
ヴァイオレット・コンスタンス・ジェソップは「沈没船の女王(Queen of sinking ships)」、「ミス不沈(Miss Unsinkable)」と呼ばれました。
タイタニックも怖かっただろうけど、
戦争の被害に遭ったブリタニックはもっと恐怖だっただろうね。
それでもまだ船で働くっておそれいったヨ。
まとめ
生存者の中で最も生存率が高かったのが二等船客の子ども。24人全員が助かっています。次が一等船客の女性144人中140人。これは97%です。
逆に最も生存率が低かったのは二等船客の男性で168人中14人しか生還できませんでした。
一等船客の男性でも175人中57人。
女性と子どもを優先して、体力のない人から冷たい海に呑まれていったことを思うと悲しくなりますが、だからといって生還した人を批判することは的外れな気もします。
チャールズ・ライトラーさんのように「皆で助かろう」と努力した方もいらっしゃるのですから。
しかし、このような生と死の境目という場面に立った時、自分ならどんな行動をとるでしょうか?
やはり日頃の価値感、判断力を試される場面と言えるでしょう。
その後の人生バッシングされ続けというのもつらい事ですね。
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