葛飾北斎はその88年の生涯で、膨大な数の版画、浮世絵を遺しました。
代表作には『冨嶽三十六景』『北斎漫画』などがあります。
この記事は北斎の描いた有名な『波』の絵のロケ地、収蔵地について書いていきます。
葛飾北斎の生涯略歴
1760年10月31日(宝暦10年9月23日)~ 1849年5月10日(嘉永2年4月18日)。
江戸・本所割下水(現在の墨田区)に生まれる。
貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟を経て絵に興味を持ち、
1778年、浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学ぶ。
1779年 役者絵師としてデビュー。
1814年 『北斎漫画』初版発刊
1823年~1833年『富嶽三十六景』制作
1834年 『富嶽百景』制作
1842年 小布施の高井鴻山邸訪問
1844年~1848年 小布施滞在。『怒涛図』ほか制作
1849年 東京、浅草にて死亡。
亡くなるときに『天が私の命をあと10年、いやあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう』と言ったらしいね。
その間改号(名前を変える)30回、転居93回。
二度結婚し、その都度一男二女、計二男四女をもうけている。
三女、お栄は葛飾応為として北斎の助手から浮世絵師となる。
葛飾応為さんの絵も素晴らしいのよね。
親子そろってちょっと変わっていたらしいけど
葛飾北斎『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』1831年
この絵を描いた場所は横浜市神奈川区、大黒埠頭から木更津方面への船上といわれています。
船上で描いたとすると、頭上から襲いかからんばかりの波頭、波にもまれる小舟の視点がなるほど、と納得できます。
これを描いたとき71歳!
これが北斎45歳の時の『おしをくり はとう つうせんのづ』
神奈川沖浪裏の原型と言われているのね。
北斎の絵は常に進化し続けていたんだね!
「神奈川沖浪裏」は版画なので多数の美術館に収められています。
1870年代にはヨーロッパに渡り「ジャポニスム」ブームをさらに推進していきます。
大英博物館にも2枚の「浪裏」が所蔵されています。
この時持ち出された書物、物品の中に「北斎漫画」もあり、1837年からオランダで公開されています。
1856年、銅版画家のブラックモンは日本から届いた磁器の包装紙に使われていた『北斎漫画』に一目ぼれ。
北斎漫画はブラックモンからマネ、ドガ、モネらに伝わり、「ジャポニスム」は一大ブームを巻き起こします。
葛飾北斎『男浪』『女浪』1845年
北斎晩年の「小布施時代」
江戸では「天保の改革」により奢侈が禁じられ、浮世絵師にも厳しい世の中になってきました。
かねてより知遇のあった小布施の豪農商、高井鴻山の元に身を寄せます。
当時北斎83歳、鴻山37歳。
北斎85歳の時、ここを再訪し際屋台の天井画として描かれたのが『竜図』『鳳凰図』。
翌年怒涛画『男浪』『女浪』。
88歳の最晩年に小布施岩松院の巨大天井画を仕上げています。
畳21畳分、絵の具代150両をかけて仕上げた『八方睨み鳳凰図』は、鳳凰が天井を舞っているかのような壮大な超大作。現在まで約170年もの間、一度も塗り替えられないまま鮮やかさを保っています。
『男浪(おなみ)』
『男波』『女浪』は『神奈川沖浪裏』を彷彿とさせながら、さらに肉筆ならではの精緻さ、奥深さをたたえたもの。
わー、小布施に行って本物を見てみたい!
小布施は海ないよね。
ってことは、これはもう北斎のイメージで描かれた波なのかな?
『女浪(めなみ)』
『男浪』『女浪』ともに周囲を彩る縁絵は、北斎の下絵をもとに高井鴻山が描いたとされています。
娘の葛飾応為も小布施に同行したんだよね
大作を仕上げる助手として働いたようね
北斎の『波』場所はどこ?まとめ
生涯数多くの波の絵を描いてきた葛飾北斎。
もっとも有名な「神奈川沖浪裏」のロケ地は横浜市神奈川区・大黒埠頭~木更津間の洋上。
木版画のため、日本国内だけでなく世界中の美術館に収蔵されています。
晩年の肉筆傑作『男浪』『女浪』は北斎がイメージした波を描いたもの。
長野県「小布施北斎館」に展示されています。