数多くの戦いを繰り広げながら、中国全土を統一し、絶大な支配力を誇った秦の王・嬴政。
彼の死によって、彼の支配下にあった秦朝は終焉を迎え、新たな時代が幕を開けました。
現代でも多くの人々に愛される漫画『キングダム』では、嬴政の生涯が描かれ、彼が如何にして中国を統一したかが伝えられています。
彼の功績や過ちは未だに多くの人々に影響を与え続けており、彼がかつて支配した地に生きる者たちは、彼の死を語り継ぎながら、未来へと歩みを進めています。
この記事では、『キングダム』の主人公・嬴政の死を取り上げ、彼が築き上げた秦朝の終焉と新たな時代の幕開けを振り返ります。
『キングダム』嬴政・趙からの脱出行で死にかけた(紀元前247年ごろ)
嬴政の父・異人は秦の昭襄王の孫でしたが、人質として趙に送られます。
異人に目を付けた呂不韋が、異人を秦の太子になれるよう画策します。
異人は子楚と名を変え、呂不韋の恋人であった趙姫(『キングダム』では美姫)と結婚し、紀元前259年、政が誕生します。
紀元前258年、呂不韋はまず子楚を趙から秦に脱出させますが、この時趙姫と政は趙に置き去りになります。
紀元前251年、史実では趙姫と政は秦に送り返されますが、『キングダム』では政を秦に送り届ける役を請け負ったのは女闇商人の紫夏(しか)です。
政は秦に対する趙人の恨みや憎しみに呪われ、痛みをも感じられないほどの精神状態でした。
そんな政を優しく抱きしめ、政を無事に秦に送り届けるために自らの命を犠牲にしてくれたのが、紫夏だったのです。
逃避行では矢を射かけられたり、馬車が襲われたり、何度も死にかけた政でした。
『キングダム』映画・杏が演じる紫夏の感動エピソードのすべて!
『キングダム』嬴政・蕞(さい)でも死にかけた(紀元前241年)
紀元前241年、合従軍の戦いの最後は蕞(さい)での激しい攻防戦となりました。
大王・嬴政は自ら民兵に檄を飛ばし、甲冑に身を包み、剣を振るいます!
しかし激戦の中で傷を受け、かなりの重体に陥ってしまいます。
それでも戦場の士気を上げ続けるため、化粧を施し、馬に乗り、前線に出て行く嬴政でした。
ぎりぎりの戦いの7日目、もう蕞は陥落かと思われた瞬間、山の民を率いた楊端和が来てくれたのです!
秦国そのものの危機に、嬴政自ら最前線で戦い手に入れた勝利でした。
史実には王自ら戦ったという記載はなく、ただ一文が残っているだけです。
(悼襄王)四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜
wikipediaより
史実:嬴政暗●未遂事件(紀元前227年)
燕の太子・丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親くしていました。
政が秦の王になると、丹は燕の使節として政に挨拶に行きますが、冷たくあしらわれ、帰国します。
秦の元将軍・樊於期(はんおき)が燕に亡命してきたのは、軍を少数精鋭にする政の策に、兵を哀れに思って反対したことが原因でした。
樊於期の家族は●され、亡命した樊於期の首には懸賞金が懸けられました。
趙が滅ぶと、秦は燕への攻勢を強めてきたため、武力では太刀打ちできないと判断した丹は、暗●を企て、荊軻(けいか)という刺客に白羽の矢を立てました。
荊軻は丹に、政に会うため
- 燕で最も肥沃な土地である督亢(とくごう)を差し出すこと
- 燕へ亡命してきていた樊於期(はん おき)の首を差し出すことを提案します。
二つの策を打診しますが、樊於期の件は賛成を得られませんでした。
荊軻は樊於期本人に「褒美のかかっているあなたの首を手土産に、私が秦王にうまく近づき●すことができたならば、きっと無念も恥もそそぐことができるでしょう」と頼んだところ、樊於期は復讐のためにこれを承知して自刎し、己の首を荊軻に与えたといいます。
丹は暗殺の武器として、古代中国の越国にいた伝説的な刀匠徐夫人の匕首を百金を出して手に入れました。
この匕首に毒で焼きを入れさせ死刑囚で試し斬りを行なったところ、斬られて死なぬ者はいなかったということです。
前227年、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の裏切り者の樊於期の首を携えて秦王政への謁見に行きました。
しかし政は、荊軻が振るう匕首を身軽にかわし、政自ら剣で荊軻を斬り伏せ、暗殺計画は未遂に終わりました。
ずいぶんあちこちで恨みを買っていたんだな…
史実:嬴政・焚書坑儒(紀元前213年)
紀元前213年、淳于越という博士が「古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべし」と意見を述べました。
始皇帝がこれを群臣の諮問にかけると、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可しました。
農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出すことになりました。
政権への不満を論じる者は族誅するという建も認められました。
始皇帝が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられています。
この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立ちました。
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説きました。
真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在を元にする超人とも言われています。
盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話しました。
始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになりました。
ある時、始皇帝は丞相の行列に随員が多いのを見て不快に感じました。
後日見ると、丞相が随員を減らしています。
始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともありました。
しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡してしまいました。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って監察に命じて方士らを尋問にかけました。
彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至ります。
始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれるものです。
この時代の宮廷の人たちもいい加減だけど、政の残虐さもすごいな…
史実:嬴政・水銀入りの薬で死亡(紀元前210年)
嬴政は、紀元前210年に第5回目の行幸中に病で倒れます。
自ら、長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で告げ、信頼を置く宦官の趙高に作成させますが、この文書は闇に葬られます。
政は水銀入りの薬を服用して死亡しました。
政は不老不死の薬を求めてあらゆる手を尽くしていましたが、結局それが命を縮めてしまったと言わざるを得ません。
王朝の終わり―キングダム、嬴政の死と新たな時代の幕開け―まとめ
『キングダム』は、古代中国戦国時代を描いた壮大なストーリーであり、主人公・信の成長や、各国の激しい戦い、そして嬴政の悲劇的な生涯など、多くの人々を魅了しています。
その中でも嬴政は、権力欲と苦悩、そして最期の決断までを見事に描いた人物として、特に注目されています。
歴史の中でも重要な位置を占める嬴政の物語を通じて、人間の本質や歴史の教訓を見つめ直す機会を与えてくれる『キングダム』は、今後も多くの人々を魅了し続けることでしょう。
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