『キングダム』に登場する武将・龐煖(ほうけん)は実在したのでしょうか?
求道者・龐煖の歩みを史実の中に探していきます。
『キングダム』龐煖(ほうけん)初登場・馬陽戦
紀元前244年、馬陽戦に龐煖は趙軍総大将として登場します。
しかし龐煖には王騎との間にここ馬陽での9年前の因縁がありました。
紀元前253年、馬陽
9年前の紀元前253年、馬陽で龐煖は秦の六大将軍の一人、摎 (きょう)の野営地を襲い、命を奪ったのです。
摎と結婚の約束が叶う寸前であった王騎は、怒りの矛を龐煖に向け、顔面に傷を負った龐煖は死んだと思われていました。
紀元前244年、馬陽
9年後、李牧に任命され、趙軍総大将として馬陽に現れた龐煖は、『神を堕とす者』羌瘣(きょうかい)の気配を覚え、飛信隊の野営地を襲います。
羌瘣の力は龐煖に及ばず、助けに入った信も龐煖の斬撃を防いだもののあまりの衝撃に意識を失ってしまいます!
飛信隊の隊員は、信を救い出し逃げることに成功しましたが、尾到は信を守って命を落とします。
そしてついに戦場で王騎と龐煖は一騎討に。
趙・魏加が射た矢が王騎に当たり、その一瞬の隙で龐煖の矛が王騎の身体を貫きます。
龐煖の印象的な場面ですが、史実には馬陽の戦いは記されていません。
このころ史実の龐煖(ほうけん)は・・・
なんと龐煖はもともと学者として名高い存在だったのです。
趙の武霊王(在位紀元前326年-298年)に召しだされ、孫子の兵法について語ったという記録が残っています。ということは…
紀元前298年に、仮に20歳であったとしても、紀元前244年には74歳になっている計算です!!
『キングダム』龐煖(ほうけん)・劇辛を討つ
王騎を討ったのちも龐煖は迷いの中にあり、山中で求道者の生活をしていました。
紀元前242年、燕の劇辛将軍が趙に攻めてきて、李牧が慶舎を使いにして龐煖を呼び寄せます。
龐煖はその圧倒的な武力で劇辛を討ち負かします。
龐煖が劇辛を破ったことは史実です。
wikipediaには「老賢者から大将軍に」とタイトルがつけられていますが、趙の悼襄王が廉頗と楽乗に同時に去られてしまったため、龐煖の出番となりました。
史実では龐煖と劇辛とは旧知の親しい間柄であったようです。
『キングダム』龐煖(ほうけん)蕞(さい)を落とせず
紀元前241年、合従軍の戦い。その終盤、咸陽を落とすべく向かったのが李牧と龐煖でした。
麃公(ひょうこう)将軍はここで龐煖に討たれ命を落としますが、史実にはその記載はありません。
蕞の民、大王・政の存在、介億先生、山の民の援軍により龐煖は蕞を落とすことはできませんでした。
これも史実です。
「紀元前241年、龐煖は趙・楚・魏・燕の精兵を率いて秦の蕞を攻めたが抜けなかった」と記録があります。
『キングダム』龐煖(ほうけん)朱海平原に現る
紀元前236年、秦は趙の鄴(ぎょう)を攻めるため、朱海平原で戦っていました。
14日目の夜、蒙恬の隊の野営地に龐煖は現れました。
蒙恬を守るために、じいの胡漸が犠牲になってしまいます。
龐煖は李牧と話し、戦う相手が信と見定めます。
李牧を討とうとした飛信隊の前に現れるのが龐煖。
全力で龐煖に向かって行く羌瘣!愛剣・緑穂の宝玉はこの時一つずつ割れて、羌瘣に力を貸していたかのようでした。
しかし羌瘣も龐煖の前にはまたしても力及ばず。
去亥も斬られ、信は「お前は…何なんだっ!」と叫びます!
読者もそう思うぞ!
そしてついに、龐煖は信の矛、王騎の矛によって倒れるのでした…
しかし、信の命も尽きていました。
それを救ったのは羌瘣です。
羌瘣は蚩尤の禁術を使い、自分の寿命を信に与えたのです。
こうして、長年にわたる信と龐煖との戦いはようやく終わりを告げました。
このころ史実の龐煖(ほうけん)は…
この時龐煖は燕への遠征軍を率いており、秦軍侵入の知らせを聞いて戻って来た時には、すでに秦軍は撤収した後だったと書かれています。
その後の活躍の記録も無いようです。
『キングダム』龐煖(ほうけん)その生い立ち
自ら『武神』と名乗る『求道者(ぐどうしゃ)』の一族が、長年趙の山奥で暮らしていました。
小さな集落で医者として慕われている龐夫妻の子、煖は赤子のころに『武神』にさらわれて山中で育ちました。
人間らしさを失い『武』それのみを追い求めた龐煖の、悲しい一面です。
『キングダム』龐煖(ほうけん)は実在した?歴史の中に武神を探る・まとめ
『キングダム』に登場する龐煖(ほうけん)は実際に存在した趙の人物です。
しかし、50年以上を学者として過ごし、70歳を過ぎてから大将軍を命じられ、武将として活躍しました。
キングダムでの龐煖の活躍のうち、紀元前242年劇辛を討つ・紀元前241年蕞を落とせずの部分は史実に基づいています。
人間離れした武神であったという部分は創作と思われます。
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