『自分の中に毒を持て』は芸術家・岡本太郎氏の著書。
自分の不器用さに意気消沈したとき、心の底から奮い立たせてくれる名著です。
この名著を要約しつつ、名言をご紹介していきます。
『自分の中に毒を持て』著者岡本太郎氏の生い立ち
読み始めてしばらくすると、「岡本太郎さんってどんなご両親のもとで育ったのだろう?」と思うはず。簡単にご紹介します。
岡本 太郎(おかもと たろう)
1911年(明治44年)2月26日 – 1996年(平成8年)1月7日
父:岡本一平(画家・漫画家・文筆家・仏教研究家)1886年6月11日 – 1948年10月11日
母:かの子(歌人・小説家)1889年3月1日 – 1939年2月18日
かの子19歳の夏、軽井沢での避暑から岡本一平と交際をはじめ、かの子21歳で結婚。
京橋の岡本家で同居を始めますが、岡本家で受け入れられず、二人で暮らし始めます。
翌年には太郎が生まれ、青山のアトリエ付き二階屋に転居します。
出会ったときには、一平は東京美術学校(のちの藝大)で洋画を勉強中。
かの子はお兄さんとともに文壇の人々と交際したり、歌人として活動をしていたんだ。
芸術家同士の結婚だったんだね。
インテリ家庭で独特な育ち方をしたため、小学校になじめず、転校を繰り返した話はこの本で語られているよね。
慶応義塾普通部を卒業後、太郎も父と同じ東京美術学校(のちの藝大)で美術を学びます。
18歳で渡仏したときのいきさつは著書には述べられていませんが、父・岡本一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧したということです。
え?かの子の愛人の青年二人??
一行を乗せた箱根丸は1929年神戸港を出港、1930年1月にパリに到着。
太郎はフランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。
その傍ら1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)において美学や1938年頃からは民族学を学んだようです。
1932年、両親が先に帰国することになり、パリで見送ります。
かの子は1939年に岡本の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなりました。
約10年のパリ生活を終えて日本に帰ってきたんだね。
苦学したわけではなさそうだな…
『自分の中に毒を持て』要約|第一章|意外な発想を持たないとあなたの価値は出ない
~迷ったら危険な道に賭けるんだ~
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。
ぼくは逆に、積み減らすべきだと思う。
自分を守ってカッコよく生きようとするのは自分自身に甘えている…自分を叩きつぶしてやる。
そうすれば逆に自分が猛烈にひらけ、モリモリ生きていける。
しょっぱなから飛ばしてるね!
パリ時代、「安全な道をとるか、危険な道をとるか」迷ったら「危険な道をとる」と決心したという岡本太郎さん。
何かを選ぶとき「結果がまずくいこうがうまくいこうが構わない。むしろまずく行ったほうがおもしろいんだ」と考えて自分の運命を賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。
めっちゃ良かった!岡本太郎凄すぎるわ #太陽の塔 pic.twitter.com/WRhCmfp6pq
— よだっち (@kusofather_yoda) November 25, 2023
勢いに呑まれて読み進むうちに心が軽くなってくるような、でもなんだか凄いものを読んでいるような、ゾクゾクした気分になったよ。
「何をしたらいいのか、てんでわからないあなたに」、と岡本太郎氏は語りかけてくれます。
チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐ行くのだ。失敗してもいいから。
何を試みても、現実ではおそらく、うまくいかないことのほうが多いだろう。
でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。
46歳から始めたスキーに関しても、こんな風に語っています。
それはただの「お遊び」では駄目なのだ。
全生命、全存在を賭けて、真剣に、猛烈に遊ぶのでなければ、生命は燃え上がらない。
…人生、即、芸術。
爆発してきた!
また、やりたいことが見つからなかったら本を読むのもいいと言います。
哲学書をずいぶん読まれたようだね
パリではフランス語に馴れる意味もあってフランス語の小説もかなり読まれたようです。
自信なんてものはどうでもいいじゃないか。
そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。
ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。
それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘いつづけることなんだ。…僕はいつでも最低の悪条件に自分を突き落とす。
そうすると逆にモリモリッとふるいたつ。
だんだん「モリモリッと」って出てくると嬉しくなってくるよ…
また「未熟」という、コンプレックスを抱きがちなことに関しても素敵な言葉が書いてあります。
スポーツも歌も会話もすべて、下手なら、むしろ下手こそいいじゃないか。そう思って平気でやればいい。
…自由に明るく、その人なりのユニークな下手さを押し出せば、逆に生きてくると思う。
また、そのほうが人に魅力を感じさせる。
カッコつけたりビクビクしたりするのを、止めてみようと思えてきたよ!
『自分の中に毒を持て』要約|第二章|個性は出し方・薬になるか毒になるか
~他人と同じに生きてると自己嫌悪に陥るだけ~
小学校に入ってすぐ「出る釘は打たれる」とつらい思いをした太郎少年。
ご両親が芸術家で、自由に育ったため、小学校だけで4校も転校を繰り返します。
「出る杭は打たれる」じゃなかった?
でも太郎少年にとっては「釘」のイメージが強烈だったようだね。
考えてみれば、その時代から、今日にいたるまで僕は少しも変わっていない。
あらゆる場所、あらゆる状況で、孤独な、「出る釘」であったのだ。
そして叩かれても叩かれても、叩かれるほどそれに耐えて頭をつき出してきた。…いやむしろ、出ずにはいられなかった。それが情熱であり、生きがいだからだ。
子どものころは「出る釘」だったのに、すっかり丸くなっちゃった自分を可笑しく思うな(笑)
それが人生に空しさを感じさせると言っているようだね
社会に入れられず不幸な目にあったとしても、それは自分が純粋に生きているから、不幸なんだ。
純粋に生きるための不幸こそ、本当の生きがいなのだと覚悟を決めるほかない。
ツラいことがあったらこの言葉を思い出したいね!
「打ってみろ」と自分をつき出す。
打たれることによって、自他をひらくのである。
ますます拡大して爆発する存在になるのだ。
『自分の中に毒を持て』要約|第三章|相手の中から引き出す自分それが愛
~ほんとうの相手をつかむ愛し方愛され方~
生涯独身をとおした岡本太郎氏ですが、パリ時代、また帰国後も多くの恋愛に身を投じてきました。
自分が自分自身に出会う、彼女が彼女自身に出会う、お互いが相手のなかに自分自身を発見する。
それが運命的な出会いというものだ。
フランスの女性とロマンティックで大人な関係を築いてきた岡本太郎氏には、日本流の結婚のスタイルは魅力のないものだったようです。
男女の関係のあった秘書の女性を、妻としてではなく養女として縁組したというのも、その表れの一つなのでしょう。
自分がその人を好きだという、その気持ちに殉じればいい。
さすが岡本太郎、恋愛も命懸けだ!!
『自分の中に毒を持て』要約|第四章|あなたは常識人間を捨てられるか
~いつも興奮と喜びに満ちた自分になる~
芸術はきれいであってはいけない。
うまくあってはいけない。
心地よくあってはいけない。
それが根本原則だ。
「きれい」と形容されるもののうすっぺらさは芸術ではなく、「美しい」という感動をあたえるものが芸術と語ります。
有名な「芸術は爆発だ」という言葉についても解説されています。
おれは神聖な火炎を大事にして、まもろうとしている。
大事にするから、弱くなってしまうのだ。
己自身と闘え。
自分自身を突きとばせばいいのだ。
炎はその瞬間に燃えあがり、あとは無。---爆発するんだ。
自分自身と向き合って生き抜いた岡本太郎氏。
強烈に生きることは常に死を前提にしている。
死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。
死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間に立ち現れるものだ。
この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう。
そのとき「死」が現前するのだ。惰性的に過ごせば死の危機感は遠ざかる。
しかし空しい。
死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。
こんな現代の生き方を「蹴とばしてやりたくなる」と語っています。
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『自分の中に毒を持て』感想
『自分の中に毒を持て』。
熱量の高い文章を一気に読み、しばし呆然としました。
「空気を読んで」「忖度して」安全な生き方を、自分は探しているだけではないのか。
こんな生き方で虚しさを感じないのか。
また、岡本太郎氏の小学生時代の姿も生き生きと描かれているため、自分自身の子ども時代を振り返り、どこか遠いところに来てしまったような、不思議な気持ちになりました。
自分の心の惹かれるほうへ。
下手でもいい、歩いて行ってみようかと考えさせられました。
自分の心をモリモリッと奮い立たせることで、日々の暮らしは豊かに彩られていくのかもしれません。
太陽の塔に潜入。
岡本太郎さんの純粋な遊び心を
存分に味わいました😊 pic.twitter.com/UcEvCfKzXG— CHIE (@chie777555) November 18, 2023
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