新選組局長として活躍し、旗本に取り立てられながらも刑場の露と消えて行った近藤勇。
映画『燃えよ剣』では、鈴木亮平さんが近藤勇を演じます。
近藤勇、新選組結成からの出来事を、年表形式でご紹介します!
『燃えよ剣』で近藤勇を演じるのは鈴木亮平さん
◢ ⚔️撮影裏話#新選組 局長 近藤勇役#鈴木亮平 さんが本作のオファーを受けたのは、奇しくも2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」で西郷隆盛を演じている最中だったそう!
西郷からみて真逆の立場を演じることに悩みつつも…演じたい気持ちが勝ったと語っています#映画燃えよ剣 pic.twitter.com/4jCBTlwtEH
— 映画『燃えよ剣』 (@moeyoken_movie) September 19, 2021
生年月日:1983年3月29日
出身:兵庫県西宮市
身長: 186 cm
学歴:東京外国語大学卒
趣味:ボクシング
特技:トランプマジック
近藤勇のプロフィールは?
氏名:宮川勝五郎→勝太→(近藤周助の養子になる)嶋崎勝太→嶋崎勇→(近藤家と養子縁組)→近藤勇→変名:大久保大和
生年:1834年11月5日~1868年5月17日
身長:五尺五寸→現在の平均身長に換算すると約182cm
1861年8月27日天然理心流宗家四代目襲名
多摩石田村の富農の三男として生まれた近藤勇は、1848年11月11日、江戸・市谷柳町の天然理心流剣術道場・試衛館に入門します。(14歳)
翌年には目録を受け、近藤周助の養子になっているんだから、才能と人格が認められんだろうな!
『燃えよ剣』近藤勇の年表
・1861年天然理心流の道場主となった勇ですが(26歳)、翌1862年夏のこと、麻疹とコレラの流行により、道場の経営難に陥ります。
これが無かったら、平和な道場主として終わっていたかもな
・折しも、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集していました。
何人もの食客を抱え、食い詰めた近藤にとっては渡りに船のいい話です。
しかし近藤は、この「浪士組」の話の出どころ、山南敬助が気に食わないのです。
・清河八郎の献策の狙いを、この徴募の肝煎役である松平上総介に確認に行きます。その場で「将軍様をお護りするのだ」と聞いた近藤勇は
額をタタミにこすりつけたまましばらく震えが止まらなかった。
歳三がそっと横目で見ると、近藤は涙をこぼしていた。『燃えよ剣』司馬遼太郎
といいます。
徳川300年、神のような存在の将軍様のためなら、命までもささげるのが「男子の本懐」という時代だったんだな
『燃えよ剣』近藤勇の年表・1863年(文久三年)
・1863年2月8日 近藤勇ら試衛館同志は「浪士組」一行に加わり、江戸・小石川伝通院を出発。
メンバーは近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、藤堂平助、原田左之助。(斎藤一は京で合流)
・1863年2月23日 京へ到着。近藤一派8人と芹沢鴨は壬生郷八木源之丞方に投宿します。
その日の夕刻。清川八郎がみんなを集めてこんなことを言いました。
「江戸では将軍をお守りするってみんなを集めたけど、ほんとは天皇陛下をお護りして毛唐を追い払いたいんだ」
「幕府が天皇陛下の邪魔をするなら斬っちゃおうぜ!」と言い出したのです。
近藤勇は「われらは、ことわる」と宣言します。
清川八郎ふざけた野郎だぜ!
この後の暗殺未遂の翌日、浪士たちをまとめて江戸へ逃げ帰るんだけど、結局幕府側の手にかかって最期を迎えるんだ。
・1863年3月13日
京で活動するためには看板が必要。
幸い同宿の芹沢鴨の兄が、京都守護職にコネを持っていたため、上手に働きかけて、
①「京都守護職会津中将松平容保御預浪士」の身分、
②「新選組」の名前、
③活動資金を手に入れ、100名以上の隊士をまとめた組織を作り上げました。
こういうの、歳(土方)は考えるの得意なんだよね。
オレは芹沢鴨におべんちゃらを言うのがウザかったぜ!
・1863年5月 近藤・土方相談の上、局中法度書を定める。
「士道不覚悟は切腹」という、史上稀に見る鉄の掟です!
・1863年7月 近藤勇 手習い(習字)を始める。
・1863年9月15日 芹沢一派の乱行に会津藩も不快感を示したため、新見錦を「士道不覚悟」のため切腹させる。
・1863年9月16日 芹沢鴨、平山五郎暗殺。平間重助逃亡、野口健司後に切腹。
芹沢派は壊滅。
・1863年12月 幕府「浪士取締令」発令。
新選組は悪鬼のごとく不穏浪士を斬りまくる。
『燃えよ剣』近藤勇の年表・1864年(元治元年)
・1864年6月 近藤、水戸藩士から情報を得る。
①道具屋枡屋喜右衛門は長州志士古高俊太郎である
②升屋の蔵には武器弾薬が集められている
③風の夜に京の市中に火をかけ、佐幕派の公卿・幕臣を粛正
④御所で天皇陛下を誘拐し、長州へ連れ去る
・1864年6月5日 近藤勇、古高俊太郎を捕縛
・1864年6月5日 池田屋の変。
旅館池田屋に20名を超える長州ほか勤皇派志士が終結。
近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、原田左之助、近藤の養子周平らの人数で斬りこむ。
その後土方歳三ら20数名が合流、大乱闘の末、陰謀を未然に防ぐ。
・近藤勇、この事件の後から白馬にまたがり、槍の隊列を従え市中見廻りをするようになる。
新選組の絶頂期ともいえるな!
・1864年6月末から長州藩の動きが活発になり、1864年7月19日には蛤御門の変が勃発します。
しかし、京都守護職の割り振りから主戦場に当たれなかった新選組は取り立てて働きもなく、1864年7月25日 壬生帰営。
・近藤勇、江戸へ下り約50名の隊士の補充。
1864年10月、伊東甲子太郎新選組に加盟。
この時の伊東派、伊藤甲子太郎、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、服部武雄、佐野七五三之助、中西登、内海次郎。
この時市ヶ谷柳町の道場をたたみ、牛込二十騎町に屋敷を買う。
このころから、仲間に「近藤は大名気取りが鼻につく」って言われちゃうんだよな
・1864年12月 伊藤甲子太郎京へ到着。
『燃えよ剣』近藤勇の年表・1865年(慶応元年)
・1865年正月。このころは三日にあげず二条城へ登城し幕臣たちと議論を戦わすようになってきました。
・1865年1月正月明け、一橋慶喜から差し向けられた技師が屯営で近藤の写真撮影をした、と書かれていますが、次期・場所ともに不詳です。
・1865年2月 山南敬助脱走、切腹。
・1865年3月 屯所を壬生から西本願寺に移転。
・1865年5月 将軍家茂上洛。このころ新編成表完成。
<参考>『燃えよ剣』キャストと実物画像比較!新選組編成表で丸わかり!
・1865年11月 軍備を進める長州を視察するため、幕府大目付・永井主水正尚志、芸州広島へ。
近藤勇、伊藤甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎も随行。
『燃えよ剣』近藤勇の年表・1866年(慶応二年)
・1866年1月 近藤勇、伊藤甲子太郎、篠原泰之進ら再び広島へ。
この時老中小笠原壱岐守長行が近藤に惚れこみ、直参大名になるつもりはないかと聞きます。
この時から伊東甲子太郎の存在が邪魔になっていきます。
・このころは興正寺下屋敷を休息所にして、深雪太夫を落籍し、囲っています。
・伊藤甲子太郎一派は尊王攘夷派の薩摩藩に同調し離反。
『燃えよ剣』近藤勇の年表・1867年(慶応三年)
・1867年3月20日 伊藤甲子太郎、御陵衛士を結成
・1867年6月10日 新選組一同幕臣に取り立てられる。
近藤勇 大御番組頭取
土方歳三 大御番組組頭
助勤一同 大御番組
監察 大御番並
・1867年6月15日、新選組屯所を西本願寺から不動堂村に移す。
・1867年10月9日 大政奉還
・1867年11月18日 伊東甲子太郎暗殺・油小路の変
ついに離反した御陵衛士を粛正します。
局中法度書は生きているんだな
・1867年12月9日 王政復古の大号令。徳川慶喜は大坂城へ。
・1867年12月12日 伏見鎮護を仰せつかり、屯営を引き払い伏見奉行所へ。
隊員は六、七十名に減少してしまっているため、幕軍から補充します。
伏見の町には長州兵が堂々と歩いていました。
薩摩藩の工作により、蛤御門の変で取り上げられていた藩主父子の官位を復活し、朝廷から京の警護を任されているのです。
これを見た近藤は、1867年12月18日、永井玄蕃頭に「意見具申に行く」と出かけ、御陵衛士の残党から狙撃されてしまうのです。
・大坂城にいる将軍慶喜が、近藤を治療のために呼び寄せます。
近藤勇は、結核を患っている沖田総司とともに大坂へ行くことになりました。
『燃えよ剣』近藤勇の年表・1868年(慶応四年)
・新選組は鳥羽伏見の戦いに敗れます。
・新選組隊士一行と、病床で待っていた近藤、沖田もともに幕府の軍艦で江戸へくだることになりました。
・1868年1月12日軍艦富士山丸へ。新選組生き残りは44名です。
船上で監察・山崎烝の葬儀を行い15日、品川に着きました。
・近藤勇の傷はここへ来てメキメキと回復し、江戸城に駕籠で登城できるようになりました。
ここで、佐藤駿河守という人物から、「甲府城を官軍に奪われるまえに、幕府側の手で押さえて欲しい」「50万石を分けよう」と言われて舞い上がってしまいます。
・幕府からは「若年寄」の格を賜り、御殿医・松本良順の入れ知恵で浅草弾左衛門を動かし、200人の兵隊と1万両の軍資金を手に入れます。
・新しい軍の名前は「甲陽鎮撫隊」。
近藤勇は名を大久保大和と変名しました。
・1868年3月1日、「甲陽鎮撫隊」は甲州へ向けて旅立ちましたが、その夜は新宿の遊女屋泊り。
3月2日は府中に泊まると、故郷の連中が押しかけてきて大酒宴となりました。
3月3日の昼には日野。
故郷に大名のいでたちで帰って来た近藤勇は、手柄話を始めると腰を上げる気配もありません。
斥候が官軍がすでに上諏訪・下諏訪まで来ていることを伝えると、慌てて旅立ちますが、外は吹雪。すぐに与瀬で宿泊せざるを得ませんでした。
3月4日には笹子峠を越え駒飼の山村に宿営。
ここで官軍の軍容を聞いたにわか作りの隊士たちは、おそれをなして半数が脱走してしまいました。
弁解をするようだけど、農民の寄せ集めの隊士に武士の気分を味わわせるために豪遊させた、という説もあるよ。
・一方板垣退助率いる官軍は、同じ3月1日に京を出て、3月5日、一足先に甲府城に入っています。
・勝沼・柏尾山上で官軍と交戦した鎮撫隊はたちまち壊滅、各自散り散りに江戸まで逃げ帰りました。
この甲府城をエサにした作戦は、新選組を江戸から追い払うための勝海舟の工作だったともいわれているんだ。
・1868年3月11日 永倉新八、原田左之助と袂を分かちます。
・土方歳三と近藤勇は会津を目指し、まずは流山に拠点を作り、隊士を募集しようと考えます。
斎藤一、野村利三郎、松本捨助ら元新選組隊士も合流し、下総国流山に屯集します。
・流山では、土地の若者が予想以上に集まり、ざっと300人の軍になりました。
土方が銃、近藤が剣の使い方を教えます。
・官軍の兵団の一つは板橋にありました。
3月20日、「流山に幕軍がいる」ということがわかり、板垣退助は、甲州で戦った近藤勇ではないかと考えます。
板橋の官軍本営の主力は土佐藩士。
坂本龍馬を暗殺したのは新選組と考えている香川敬三は、復讐心をむき出しにします。
1868年4月2日、江戸を発った討伐隊は千住、春日部と泊まりを重ね、4月4日流山の対岸に布陣します。
・500名の官軍を見て、土方歳三は急襲を提案しますが、近藤勇は
「官軍の本陣に行く。話せばわかる」といい、平服で出頭します。
・流山官軍本陣は、「流山屯集部隊の発砲を申し開きするために、春日部の本陣に出頭せよ」と言い、近藤は土方に別れを告げて春日部に出頭します。
・1868年4月25日、近藤勇板橋にて斬首。
『燃えよ剣』近藤勇の新選組年表!まとめ
1863年に浪士組を結成し、新選組を作ってからわずか5年と2ヶ月で生涯を終える近藤勇です。
骨太で豪快、情に篤い人柄は多くの人を惹きつけました。
あれから150年が経とうとしていますが、現代日本においても愛され続けるのはなぜなのでしょう?
劇場で鈴木亮平さん演じる近藤勇の姿を見れば、理由がわかるかもしれません!
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