『燃えよ剣』では幕府を守るため命をかける男たちと対比するように、戦線からの退却を繰り返す、日本最後の征夷大将軍・徳川慶喜が描かれます。
歴史的には英邁な人物として扱われている徳川慶喜公の行動を、小説『燃えよ剣』から考察していきます。
『燃えよ剣』新選組を徴募した頃の幕府と慶喜は
1862年。幕府政治の混乱と、外国船の来航等によって社会情勢が悪化していました。
薩摩藩の島津久光は「公武合体」を推し進めようと、朝廷に「将軍を京都に呼んで、一緒に外国人を打ち払おうよ!」と提案します。
それで、当時の将軍、徳川家茂は1863年3月、江戸から京都に行くことにします。
徳川慶喜はこのとき「将軍後見職」についています。
この時に将軍警護のために集められたのが浪士組です。
『燃えよ剣』新選組は幕府に取り立てられて旗本になりたかった
浪士組の面々に対して、清河八郎は
「将軍警護って言って集まってもらったけど、尊王攘夷やろう!
天皇陛下のためなら幕府がおかしなこと言ったら斬っちゃおう」
と言いました。
近藤勇率いる試衛館一行は、「幕府を守るんじゃないのかよ?」と分裂し、幕府の京都守護職・会津藩のお預かり「新選組」となって、京の町の不逞浪人を斬りまくります。
1864年7月「池田屋の変」の頃、幕府では「特に過激な長州人や不逞浪人たちをほっとくわけにもいかないし、でもあんまり刺激するのもな~」という空気でした。
決死の思いで働いた新選組には「与力上席(警察官)」にしてあげようか?という感謝状が届きました。
近藤勇は、「おれがなりたいのは大名だ!」とこれを断ります。
その後、1867年になって、新選組一同幕臣にとりたてられることになります。
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『燃えよ剣』幕府と慶喜の動き
1864年8月20日「蛤御門の変」では、長州藩の過激な動きを会津・薩摩を中心とする幕府軍で抑えました。
この時慶喜は、御所守備軍を自ら指揮し、歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ、そんな時もあったのです。
1866年7月、家茂公が大阪城で亡くなったあと、周りは当然慶喜を将軍にと推しましたが、慶喜はこれを固辞。
8月に徳川宗家の家督は継ぎますが、将軍職を引き受けたのは12月のことでした。この時にははっきりと開国を目指していました。
1867年10月14日には、大政奉還が行われます。
映画『燃えよ剣』では、大政奉還のシーンが「お笑いなの?」と思う程、慶喜の不審な様子が強調され描かれています。
山田裕貴さんの演技、光っています。
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『燃えよ剣』鳥羽伏見の戦いと慶喜
徳川慶喜は「恭順の意を表すため」大坂城に移ります。
1868年1月、長州・薩摩・土佐藩対幕府軍の戦いが始まり、劣勢になった幕府軍は大坂まで敗走します。
大坂には幕府軍が集結していたにもかかわらず、慶喜は会津中将松平容保を道連れに、城を捨てて逃げてしまっていたのです!
慶喜は主戦派から
「将軍が戦場へ出てくれたら、みんなやる気が出るし、人数もこっちが上だし、海軍もいるし、絶対勝てるから!」
と言われて
「うんうんいいね!いま行くよ~」と返事をしたにもかかわらず、こっそり逃げてしまったのです。
あんまりですよね。
[MANTANWEB] 山田裕貴:「燃えよ剣」で冷静、冷酷な徳川慶喜に 「こんな将軍がいたら嫌だなぁ」を体現 https://t.co/PJaFyryZS6 pic.twitter.com/tnl8Y2CHGV
— オタカルニュース♪ リリウム (@liliumnews) September 16, 2021
『燃えよ剣』徳川慶喜は英断の人?弱虫なの?
実際の徳川慶喜が英傑であったのかどうかはさておき、映画『燃えよ剣』では身勝手でずるい殿様として扱われています。
『燃えよ剣』では、主に裏切られる新選組の悲哀を描くため、山田裕貴さんが頑張って演じた「こんな将軍は嫌だなあ」がとても効果的でした!
ぜひ劇場で、確認してみてくださいね。
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