『燃えよ剣』では官軍に投降したシーンで近藤勇の描写はほぼ終わりですが、実際はその後どうなってしまったのでしょう?
「近藤勇は処刑の前に命乞いをした」という噂がありますが、本当でしょうか?
全国にたくさんある近藤勇のお墓についても調べてみました。
近藤勇が命乞いをしたのは本当?
・小説『燃えよ剣』では、近藤勇の最後は上記の記述で終わっており、命乞いをしたのか、処刑の模様は、等の事実には触れられていません。
・命乞いをしたのは、自分自身のためではありませんでした。
「こんなに有名な人物を処刑するのだ。代わりに二人の若者を助けてやってくれ。」と、板橋まで随行してきた25歳の野村利三郎と相馬主計(そうま・かずえ)の二人を釈放するよう頼んだのです。
彼ら二人は釈放された後、土方歳三と合流して函館へ行き、最後の幕府軍の一員として戦っています。
近藤勇の処刑の模様
近藤勇の処刑の模様は、近藤の甥・近藤勇五郎の証言が『始末記』という記録に残されています。
「板橋刑場」と言われますが、細竹の竹矢来など一切ない空き地のような場だったそうです。
近藤を乗せた山駕籠が降ろされ、近藤勇が出てくると、見物人は十間(約18m)ほど遠ざけられました。
処刑の前には髪結いが呼ばれ、月代から髭を剃らせました。
その後、近藤が「ながなが御厄介に相成った」と周囲の役人たちに礼の言葉を述べたそうです。
近藤勇五郎氏が立っている場所まで良く聞こえた、と書かれています。
斬首の際には首をわずかに傾け、髻(もとどり)を自分で前の方に持ち上げて、後方から斬りやすいように直したそうです。
武士らしく切腹することも許されず、平民同様の斬首となったことは無念だったでしょう。
近藤勇の首は京都の三条河原で梟首され、その後の首の行方は不明となりました。
近藤勇の墓はなぜたくさんある?
遺体、遺髪、首を埋葬したと言われる墓所が各地にあります。
・遺体は三鷹市の「龍源寺」に埋葬されました。
【龍源寺住所】東京都三鷹市大沢6-3-11
※しかし、この遺体は別人のものであったという説もあります。
・近藤勇の治療をした松本良順は遺体を「寿徳寺」に埋葬したと語っています。
【寿徳寺住所】 東京都北区滝野川4-22-2
・また、板橋処刑場の近くに「供養塔」があります。
これは永倉新八が発起人となり、明治9年(1876年)に建てられたものです。
【供養塔住所】東京都北区滝野川7-8-10
・「天寧寺」には近藤勇の遺髪が祀られています。
これは土方歳三が松平容保公に依頼し建てられたものです。
【天寧寺住所】福島県会津若松市東山町石山天寧208
・「法蔵寺」には京都で近藤の首を奪取した元隊士が首を埋葬したという墓石があります。
寺の過去帳にも「慶応四年四月 進選組長 貫天院殿純義誠忠大居士 近藤勇」と記載されているそうです。
当時は処刑台から首を盗んだものは同罪として処罰されたそうですから、覚悟のうえで持ち出したのでしょう。
【法蔵寺住所】愛知県岡崎市本宿町寺山1
・「高国寺」にも、近藤勇の首が埋葬されているという説があります
近藤の従兄弟・近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り、火葬後埋葬したと言われています。
【高国寺住所】山形県米沢市鍛治町4586
出典:『我餓狼と化す』東郷隆著(実業之日本社)
近藤勇の最期は?命乞いをしたのは本当?映画『燃えよ剣』では?まとめ
近藤勇の最期は、自ら出頭した官軍の板橋刑場で斬首となってしまいました。
近藤勇は刑の前には随行してきた若者を釈放させ、役人には礼を述べました。
最後まで堂々たる胆力を見せて潔く散っていった人物でした。
多くの人が近藤勇を悼み、後世に彼の人生を伝えるべく墓所や供養塔を建立しました。
6年間の活動で人々に強い印象を与えた新選組は、150年経った今も日本人の心の中に生き続けています。
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