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豊臣兄弟|太閤記|年表で見る史実と虚構②ねねとの結婚そして美濃攻め

大河ドラマ
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2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟』では、豊臣秀吉と弟・豊臣秀長が心を寄り添わせ、力を合わせて世に出ていくくだりを放映中です。

さて、織田信長の家臣となった秀吉が、どのように世に出て行ったのか。
司馬遼太郎氏『太閤記』の内容と、史実を突き合わせながら、年表形式で読み解いていきます。

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【史実】1556年|織田信長の美濃の舅・斎藤道三、実子に討たれる

時は遡って1548年、美濃の斎藤道三は尾張との和睦のため、娘帰蝶(濃姫)と織田信長を結婚させます。
信長は当時14歳、濃姫13歳。政略結婚です。

しかし1556年、舅の斎藤道三が実子の義龍に討たれたとき、道三は「信長に美濃国を譲る」と書き残していました

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【太閤記】1556年|藤吉郎存在感をアピール、斎藤道三討ち死にの際存在感を示す

1554年から織田家に仕え始めた藤吉郎、この時点で約2年が経過していることになります。

藤吉郎は、非番の日には蜂須賀小六の屋敷に遊びに行きながらも、信長の鷹狩の際には瓢箪に入れた飲み水を携行し、自身の存在感を示すことに必死です。

信長は足軽頭・浅野又右衛門に「藤吉郎を小頭にしてみろ」と言いつけ、身近で見ていることで、藤吉郎の人使いの巧みさ、管理能力の高さを目にすることに。
小人頭に昇進し、「中村」の姓と瓢箪の紋を使い始めます。

また、薪炭奉行の役、城の塀の普請でも実務能力の高さと人使いの巧みさをアピールします。

さて1556年。
斎藤道三は信長に「援軍に及ばず」と断りを入れた上で美濃の国の譲り状を送ってきています。

信長は清州城から美濃へ出陣。
藤吉郎はこの時川の浅瀬に竹印を立て、伏兵を探り、行軍の進言をします
藤吉郎にとっては、美濃と尾張はなんども流浪した勝手知ったる場所。

見事に存在感を示して見せます。

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【史実】1560年|桶狭間の戦い

永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦

今川義元は駿河、遠江、三河の大領主。

2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し、今川義元を討ち取った。

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【太閤記】1560年|桶狭間の戦い・今川義元の短足情報を信長に伝える

今川義元が京都を目指して西上を開始。尾張に侵攻してきます。

藤吉郎は、今川義元が短足で馬に乗れないことを信長に伝えます
これによって信長は騎兵の長距離襲撃を思いつきます。

永禄3年5月19日午前2時、幸若舞『敦盛』を舞い、湯漬けを立ち食い、騎乗電発。

「みな、きょうは命をわしに授けよ」と叫んだ信長は、進軍中に今川義元が桶狭間で休憩中との諜報を受け、午後二時に奇襲をかけます。

折からの激しい雷雨のなか、4万人の尾張軍に守られた今川義元の首を取ったのは、3000人で突撃した織田信長の軍でした。

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【史実】1561年藤吉郎 浅野長勝の養女・寧々(ねね)と結婚する

ねねと結婚した年は、1561年・藤吉郎25歳ということで一致しています。

1561年 藤吉郎 浅野長勝の養女・寧々(ねね)と結婚 藤吉郎25歳、ねね14歳。

ねねと秀吉の間には子どもがいなかったけど、ねねは加藤清正や福島正則など

親類縁者の子どもたちを養育して有力な家臣に育て上げたりしたんだ

秀吉が関白になると、ねねは『北政所』と呼ばれるようになったよ

秀吉の没後は落飾して、『高台院』の名を朝廷から賜ったんだね

 

 

 

 

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【史実】1565年 織田信長美濃攻め

①1565年 川並衆を味方につける

②1566年 墨俣に砦を築く

③1567年 稲葉山城を攻略

④1570年 竹中半兵衛 秀吉の与力になる

織田信長美濃攻め地図

『豊臣一族の戦国時代』監修:小和田哲男p.19

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【太閤記】美濃攻め

墨俣一夜城

藤吉郎は、長年の付き合いがあった蜂須賀小六から、あぶれ者100名を借り入れます。
彼らに持たせた紙の旗印と松明の灯りで美濃衆を欺き、劣勢の戦いから織田軍を守りました。

また信長に墨俣の築城を進言したのち、織田家の士として取り上げられ、騎乗を許され33貫の禄が下されました。

墨俣では、佐久間信盛、柴田勝家が失敗した後、藤吉郎が蜂須賀小六と組んで墨俣の一夜城の建設に成功。野武士に現金即決での報酬を約束し、防衛に成功します。

蜂須賀小六も織田信長に召し抱えられることとなり、秀吉は小六からの長年の恩に報いることができました。

竹中半兵衛

藤吉郎は、軍略の才を持つ西美濃の竹中半兵衛を以前から知っていました。

竹中半兵衛には兵法の知識だけでなく、西美濃三人衆との姻戚関係を持っていたので、藤吉郎は牢人を装って会いに行きます。

このころ信長は清州城から小牧城に居城を移し、美濃出兵の足掛かりとしました。

美濃城主・斎藤竜興はこのことにも反応を示さず、また半兵衛を嫌い軽んじていたため、半兵衛は一計を案じ、美濃三人衆と一緒に稲葉山城を奪取してしまいました。
これは藤吉郎の調略が功を奏しています。

粘り強く半兵衛を追い、ついに藤吉郎自身の与力にすることに成功すると、藤吉郎は半兵衛に墨俣城を任せるのでした。

稲葉山城

ぬかりなく調略に手を尽くしたのち、稲葉山城を攻めに出た信長。
藤吉郎は半兵衛から山頂に登る間道を聞き出し、城内に侵入。
小一郎、義弟の浅野弥兵衛が藤吉郎の軍を率いて城を占拠し、これによって信長は美濃進出を成功させます。

稲葉山城は岐阜城、城下町井ノ口は岐阜と名前を変えて信長の拠点となっていきました。

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まとめ:豊臣兄弟|太閤記|年表で見る史実と虚構②ねねとの結婚そして美濃攻め

信長にとって長年の悲願であった『美濃攻め』を成功できたのは、やはり藤吉郎の異才があってこそだったのでしょう。

史実の隙間を丁寧に探る『太閤記』では、藤吉郎が行った調略や信長に対する接し方が描かれ、秀吉の人間像が思い描かれました。

大河ドラマ『豊臣兄弟』では、武術も達者な藤吉郎が描かれ、オープニングでは小一郎との『キングダム』のような剣のけいこも見られますが、藤吉郎の育ちでは武術の稽古ができる余裕はなかったのではないかと考えてしまいますね。

戦国時代、武功があげられなくても天下人にまで上り詰めていく秀吉、その原点がこの時代に作られているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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