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【豊臣兄弟】万丸(よろずまる)は実在する!秀吉に命じられ切腹!ともの息子は3人すべて薄命

万丸 大河ドラマ
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「豊臣兄弟」第16回「覚悟の比叡山」に登場した万丸(よろずまる)。

秀吉は宮部継潤を調略するために、姉ともの子、万丸を差し出します!

可愛くいじらしい万丸の様子と、我が子を手放さねばならないともの姿が涙を誘いましたね。

さて、万丸って実在するのでしょうか?

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【豊臣兄弟】万丸(よろずまる)は実在する!

万丸は1568年生まれ。「豊臣秀次」という実在の人物です。

父は三好吉房。母は豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀(とも)
兄弟は長男・秀次(本人)、次男・秀勝、三男・秀保三人兄弟です。
史実でも、養父は宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉。

万丸

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【豊臣兄弟】万丸(よろずまる)が人質にとられる経緯

1570年6月、織田信長は「姉川の戦い」で浅井・朝倉の連合軍を破りました。

しかし、信長は「浅井を討つ」ために、浅井の小谷城を囲む周りの城を秀吉に調略させます。

1572年、秀吉は宮部城主・宮部継潤に織田側へ寝返ることを勧めますが、宮部継潤は秀吉の子を人質に要求します。

子の無い秀吉は、姉・ともの子万丸(4歳)を差しだすのです!

ドラマでは小一郎が説得していたね。
わしらはもう百姓ではない!民を守る側の武士なのじゃ!と。

宮部家の養子になった万丸は、宮部吉継と名乗ります。

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【豊臣兄弟ネタバレ】万丸(よろずまる)その後・・・

1573年9月1日、小谷城陥落、浅井氏は滅亡。
織田信長は、秀吉の功を認めて、宮部継潤を秀吉の与力の一人とします。

これにより万丸は家に戻ります(5歳)

宮部が自分の部下になり、浅井滅亡によって危険がなくなったなら、

もう人質はいらないね

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1582年6月・本能寺の変/三好康長の養子に

1574年。当初、織田信長と反目していた三好康長ですが、信長との戦に負け、和睦の際に茶碗を贈ったところ、これが信長のツボにハマり、いっきに信長のお気に入りに。

1582年には、三好康永は四国・長宗我部元親を攻め、信長の三男を養子に貰う話が内定していました。
ところがその最中に本能寺の変が起きてしまい、兵を引いて京都へ戻ることに。

一転して勢いを盛り返した長宗我部に対抗するため、三好康永は秀吉の甥・吉継(万丸)を養子に貰います

吉継(万丸・14歳)は、三好信吉と名乗ることになります。

本能寺の変ののち、三好康永は出家して寺に入ってしまい、康長の実子も亡くなってしまったため、三好信吉(万丸)は15歳で三好家臣団を率いる大名になります

1584年ごろ、16歳の信吉は「羽柴信吉」と名乗るようになります。

利用する相手がいなくなれば、人質として置いておく必要がないからか。

また秀吉のもとに帰って来たんだね。

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秀吉の近くで活躍し、出世を続ける

1584年、信吉は長久手の戦いで失態を演じ、叔父の秀吉に激しく叱責されます。

しかし翌1585年、紀伊雑賀征伐で信吉(万丸・17歳)は叔父・秀長とともに副将を任されて、戦果を挙げます。

続く同年6月の四国征伐では、病気の秀吉に代わって秀長が総大将となり、信吉は副将として参戦。
大きな手柄を上げます。

秀吉の関白就任に前後して秀次と改名し、羽柴秀次と名乗るようになります。

近江八幡で城主となり、1586年の春頃、秀次はさらに昇進し、ついに豊臣の本姓を秀吉から下賜されたのです。

とんとん拍子で出世を重ね、1591年には百万石の大名になり清洲城に居を定めます。

秀吉にしてみれば、よく出来た甥だから自分の跡を継がせようと考えていたんだね。

1591年1月22日に秀吉の弟秀長が、8月5日には秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去。

秀次は秀吉の後継者として関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となりました。
以後は聚楽第が生活の場になっていきます。

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淀殿、秀吉の子を産む

1593年8月3日。大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を出産。

このとき秀次25歳。ちなみに秀吉56歳。

表面上は仲睦まじく接していた秀次と秀吉ですが、秀吉の我が子に対する溺愛ぶりを見て、秀次は喘息の発作に襲われるようになります。

メンタルやられるよね

当時、秀吉の采配で朝鮮出兵(文禄の役)が行われていましたが、秀次は再三の勧めにも従わず、出兵を拒んでいました。のみならず日夜遊びに耽るようになっていきます。

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切腹事件へ

1595年6月末に突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がります。

秀次はすぐさま謀反の疑いを否定、誓紙を提出しています。

7月8日、再び、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名からなる使者が秀次を訪問し、秀吉の居城・伏見に出頭するよう伝えるのですが、いざ伏見城へ行ってみると、秀吉の面会はなく、「高野山へ行け」との指示があったようです。

7月10日、高野山に入った秀次。出家し、道意という名になります。

いったいいくつの名を名乗ったんだろう?

7月15日、ついに秀次に賜死の命令が下り、供の者4名とともに切腹。

秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかりました。

8月2日早朝、秀次の子どもたち、正室と側室などが次々と処刑されました。
結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名全員の斬首でした。

こんなひどいこと、教科書には載っていなかったよ

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万丸の弟二人も若くして散る

万丸の弟二人はどうなったのでしょう。

次男秀勝は1592年、朝鮮出兵で9月初旬に発病。9月9日に秀勝は陣中で病死しました。享年24。

三男秀保。1595年4月16日十津川にて病死。享年17。

秀吉のお姉さん、ともの子は3人とも早くに亡くなってしまったんだね。

なんてこと・・・

 

 

 

 

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